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 太田神社例大祭 御山掛け

  2012年(平成24年)6月27日(水)
 せたな町大成区にある北海道最古で室町時代の創立といわれる山岳霊場「太田神社」例大祭の御山掛けに参加してきました。政教分離ですので、もちろん年休を取って行きました。

↓太田神社の情報はこちらhttp://www.town.setana.lg.jp/modules/tinycontents/index.php?id=34

お祭りの開催情報はこちら
http://www.town.setana.lg.jp/modules/bulletin/article.php?storyid=479

 太田神社本殿へは、急勾配の石段と登山道のような山道を登り、最後は7メートルの垂直の岩場を鎖を登ってたどり着きます。御山掛けとは、地元の若い衆が、白装束に身を包み、足袋・草鞋を履いて、海の近くの拝殿(下の画像)でお祓いを受けた後、お神酒をもって山の上の本殿に登るというものです。

   
   
 海がきれいだ 拝殿から岩場の本殿を望む 
   
 拝殿 定灯籠から本殿を望む。以下、観光協会のホームページより。
太田神社拝殿横の崖に、安政4年(1857年)に建設されていた北海道有数の古さを誇る灯台「定燈篭」が復元されています。
 この場所は昔から「じょうとうの崎」と呼ばれ、なぜこの呼称があったのか不明でしたが、地元高等学校教諭が古文書などを調べ、その存在を突き止め、定燈篭があった場所と台座、定燈篭本体の破片を発見しました。 
 また、台座の岩に刻まれた碑文も発見され、安芸の国の行者 政四良という人物が奉納したのであろうということも推測できました。
  これらのことにより「久遠を知る会」が結成され、さらに史実を掘り起こし、この史実検証に基づいて昭和63年に復元が計画され、往時の姿そのままに完成されました。
 定燈篭は高さ1.3m、幅40cmの青銅製で、淡くともる灯火は海の色、太田山とあいまって幻想的な雰囲気をかもし出しています。
○ついでに、神社の由来と年表があったので、書き写しておく。
<太田山大権現>
 太田山大権現は、北海道西海岸随一の霊場にて、有珠の善光寺と並び称される。往時より参詣者絶ゆることなし、太田山(485米)は、一名帆越岬と称し、沖合通過の船は必ず下帆の礼を為し、然らざれば航路難渋すと伝へられる。
 そのゆらいは、遠く享徳三年(1454年)武田信広(松前藩祖)一族70余名を従へ蝦夷島に向い奥尻島へ停船して対岸の情勢を探らん と上陸するにアイヌこの山嶺を仰ぎ跪座して礼拝し居るを見、その理由を問うにアイヌ曰く「この山頂に霊神あり、オホタカモイと称し航海を護り病災を救う霊験顕著にしてい、蝦夷地の守護神なり」と。信広これを聞き即ち登山し、洞窟を本殿として太田山大権現の尊号を奉り、武運長久、天下泰平、海上安全、諸業円満を祈願せりと伝う。
 その洞窟鉄鎖三丈(九米)を攀じ登る嶮崖にあり、寛文六年(1966年)僧円空この地に来たり、鉈作りの大日如来を奉安せり、安永七年(1778年)僧、木喰もこの洞窟にて作仏せり。真言山伏の参篭と全国より崇敬者の参詣絶えず。6月28日の例祭頗る殷賑を極む。慶応三年(1867年)山麓に拝殿を造営して参詣の便を計りしが明治4年神仏混淆禁止の布達により、太田山を太田神社とし、山麓の大日如来を村落に移して大日堂とす。大正11年(1922年)6月28日参篭者の灯明により発火して洞窟内のすべて鳥有に帰し、現在は猿田彦大神を祀る。
<年表>
嘉吉年間(室町時代)1441〜1443年 太田神社の創立といわれる
享徳3年(1454年) 武田信広(松前藩祖)太田大権現の尊号を賜わる
寛文6年(1666年) 美濃の国の僧、円空大日如来を奉安する
宝永元年(1704年) 越前国正光寺の僧、空念観音経を奉安する
安永7年(1778年) 甲斐国の僧、木喰大日如来を祀る
寛政元年(1789年) 三河国の国学者、菅江真澄詣る
寛政12年(1800年) 伊能忠敬蝦夷地を実測する
文化3年(1806年) 幕吏、遠山村垣の一行巡視する
文化4年(1807年) 近藤重蔵一行巡視する
分改元年(1818年) 不動明王2神の銅像を津軽浜田村の人山田助右衛門が安置する
天保12年(1841年) 大田村に大日堂を建立し、備前の国の僧、増賢が大日如来を祭る
弘化2年(1845年) 松浦武四郎一行巡視する
嘉永元年(1848年) 僧、定山(定山渓温泉開祖)別当として住居する
安政3年(1856年) 松浦武四郎一行再び巡視する
慶応3年(1867年) 太田山麓に拝殿を造営する
明治4年(1871年) 太田山大権現の仏体仏具を廃し、太田山神社と称す、猿田彦大神を祭る
明治27年(1894年) 拝殿改築、拝殿前面に社務所新築される
大正11年(1922年) 本殿を消失、本殿再建、さらに女人遥拝堂を新築する
昭和7年(1932年) 道南霊場第一位となる
昭和38年(1963年) 拝殿大鳥居完成、拝殿、社務所を新築する
昭和51年(1975年) 女人堂改築される
昭和52年(1776年) 本殿改築される。 
   
   
 
   
   
 御山掛けの人数は、地元大成区の2030歳代の若い衆4人と、自分(最年長40代)、そしてカメラマンである体重0.1トンの役場若手職員の計6名です。 地元の爺さんたちの「あいづ見だごどのねえツラだな」(訳:あの人の顔は見たことがありません)や年配のお姉さんたちの「頑張れや」という励ましをいただきながら、登山口の鳥居前に向かいます。
 鳥居前に到着です。鳥居の奥には、この世のモノとは思えない急な階段があり、ロープも垂れ下がっています。
 急な階段をロープに掴まりながら登り、その次は、獣道みたいな山道を登ります。0.1トンの若者は全身汗だくなりながらついてきます。
   
   
   
 途中、中間地点の女人堂という祠を過ぎて、写真の鳥居を過ぎると、視界が開けて岩場に出ます。写真のような滑り台のような簡素な橋を登って行きます。橋の向こうは切り立った崖になっており、橋が壊れたら谷間に真っ逆さまです。橋の向こうの岩場にひらひら幟が舞っているのが本殿で、目指すゴールです。
   
   
   
 橋を登りきると、最後の難関、垂直の岩場です。岩場には写真のように鎖が掛けられています。鎖に取りつく場所も狭く、その背後も切り立った崖になっており非常に怖いのです。参拝した人のブログなどを拝見すると、ここで鎖を登らずに断念する人もいるようです。自分は高所恐怖症なので断念しようとも考えましたが、ここで諦めると非常に情けなく、後々何を言われるかわからないので、気持ちを奮い立たせてチャレンジしました。履きなれない草履とヒラヒラする白装束、そしてグラグラと揺れる鎖と格闘しながら登ること数分。やっと登頂です。本殿には町の観光協会のSさん(女性)が待っていてくれました。0.1トンの若者も登頂しました。登頂した人の中では最大級の重量ではないかと皆で噂していました。 本殿は崖を登り切った洞窟の中にあります。切り立った崖の向こうに青く澄み渡った日本海と山々、そして海の向こうには奥尻島が近く見えます。絶景です。この地に神が住まうと信じた昔の人の気持ちもよくわかります。それにしてもここに本殿をよく建てたものです。
 
   
 皆揃ってから、本殿にお神酒を捧げ、二拝二拍手一拝をしてから、そのお神酒をいただき、記念撮影です。しばらく休み降りることとしました。怖い岩場の下り、これも何とか無事に下り終え、山道を下り降りたのですが、これまた慣れない草履が足の親指と人差し指の間に食い込んで歩きづらいのです。そうは言いながら、下りは楽であっというまに下山。下山の後は宵宮の売店で、来たりし本殿を眺めながら、せたな町特産のホタテ、バカ貝、白貝などの炭焼きを肴においしいビールを飲みました。
   
   
 
最後にきれいな夕日。 
 

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