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2020年(令和2年)6月20日(土)
長万部町国縫 1669年クンヌイ川 シャクシャイン古戦場跡碑

 札幌と地方との往来が緩和され実家に帰る途中、クンヌイのところに「シャクシャイン古戦場跡碑」の案内看板を見つけた。国縫が古戦場だったことは以前から知っていて気になっていた。
 場所は国縫小学校のグランドの外れにあった。碑文から国縫川沿いに両軍は対峙したという。当時は兜甲冑・鉄砲・槍・刀の松前軍と毒矢が主体のアイヌ軍がどのように戦ったのか興味深い。武力に劣るシャクシャインはシベチャリ(現新ひだか町)まで後退し、最後は和睦の酒宴を装った和人に殺されてしまう。しかし、当時の和人は、アイヌへの収奪だけでなく、飲み会の席で裏切る本当にずるい奴だ。
 戦争については、歴史としてみれば興味深いが、個人として戦う身になれば殺し合いはすべきでないという矛盾にいつも苛まれる。ちなみに自分としてはいろんな厳しい仕事をしてきたが、いつでも「戦争に行く、または指揮する」よりマシだと思って仕事をしている。以下は、碑文を転載。
 
【転載はじめ】「シャクシャインの戦争」クンヌイ古戦場跡
 1669(寛文九)年、和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのおさシャクシャインが、アイヌモシリ全域に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。
 シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到着し、クンヌイ川をはさんで松前軍と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本居地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦を装った酒宴で殺され、戦いは終息に向かった。
 クンヌイ川をはさんだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。
 この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。
 それは十九世紀初頭から二度の幕府直轄を経て、明治期から近代法律体系の中で漸次形づくられたものだ。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の良し悪しを意味してはいない。
 この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。

2016(平成28)年九月建立 長万部町長 木幡正志

【転載終了】
 
 
 
 
 
 

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