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令和3年(2021)6月20日(土)

南部藩モロラン陣屋(室蘭市)
 
 絵鞆のチャシを訪問後、白鳥大橋を渡って南部藩モロラン陣屋へ。ここは通るたびに気になっていたがはじめて訪問。土塁と濠が構築され、まさに城郭である。幕末当時の緊張がうかがわれる。

【南部藩モロラン陣屋】
・城 跡 名:南部藩モロラン陣屋
・所 在 地:北海道室蘭市陣屋町2丁目5-1〜6
        マップコート:
・創建年代:安政3年(1856)
・創 建 者:南部藩
・形  態:
・主な遺構:土塁・堀
・大きさ:350m×170m

・室蘭市ホームページより転載
 陣屋が作られた拝啓
 この陣屋が造られたのは江戸時代の末期。ロシア・アメリカなどの異国船が相次いで来訪し、北海道を含む日本列島の北方域は諸外国の侵犯に脅かされていました。このため江戸幕府は、東北地方の諸般に蝦夷地(当時の北海道の呼び名)の沿岸警備を命じました。
 現在の室蘭市域を含む、現在の函館から幌別までは、南部藩が沿岸警備に当たることになりました。
 安政2年(1855)勘定奉行、新渡部十次郎(新渡戸稲造の父)ら28人が事前の調査を行ない、箱館に元陣屋をおき、エトモ場所が営まれ天然の港であった室蘭には、ペケレオタ(白い、または明るい砂浜の意。現室蘭市陣屋町付近)に、出張陣屋を構築することを決めました。
 翌安政3年の3月(旧暦)から南部藩の村田宗吉ら大工18人、左官4人、屋根ふき5人、土方40人、きこりなど45人余りで造営工事が進められ、同年9月に陣屋が完成しました。

 方形の土塁に囲まれた陣屋
 陣屋内陣には、高さ2〜3メートルからなる土塁が方形にめぐらされています。その外側には掘が造られ、特に港に面した正面は水濠になっています。そして、これら内陣と掘の外側には、さらに土塁がめぐらされています。
 内陣には、火縄銃の鉄砲武者たちの兵舎や稽古場、馬屋、大砲置き場など7棟と井戸が設けられ、内陣の後背には、土塁に囲まれた火薬庫も置かれていました。
 また、ポロシレト(大きな岬の意。現室蘭市崎守町)と絵鞆には、陣屋と三方から湾内への侵入船を撃退する台場が、さらに追直と鷲別には見張所も設けられました。なお、このとき長万部・砂原(現:森町)にも分屯所が設けられました。
 12年余りにわたり南部藩士が派遣され、守備のため駐留しました。冬を越す食べ物や寒さに随分苦労したことでしょう。
 明治に変わる直前の慶応4年(1868年)、新政府への陣屋の引渡しを拒み、同年8月、藩士は自らこれを焼き払い、故郷に引き揚げたとされます。

 飛ばなかったとされる大砲
 ポロシレトの台場で大砲の試射を行なったところ、約7.5〜19キログラムの柘榴弾(ざくろだん)は目標の約1090メートルに対し、一番飛んだので約109メートル。ひどいのは、わずか2、3メートルしか飛ばなかったとされる。
 砲弾は、昭和45年に内陣から発掘され、現在市指定文化財となっています。直径2.6センチメートルから11.5センチメートルまで大小6種類があり、隣接する民俗資料館に展示されています。なお、残念なことに先込め式大砲の方は現存していません。

 陣屋の現在
 この陣屋跡は、昭和9年5月、国の史跡指定を受けました。昭和43年から5年がかりで土塁と堀の修復や屋敷跡の平面復元が行なわれ、建物の礎石や石敷きの通路が検出されています。
 また内陣には、南部藩士の子孫であった山口青邨が、昭和33年に来蘭したおり詠んだ「黄を濃くし陣屋を出でず秋の蝶」の句碑が建立されています。
 陣屋跡に現在も残る杉林は、内陣の背後に植えられたものと、火薬庫の周囲に日差しよけとして、また外陣南側に植えられたものの一部です。史跡の一部として土塁や堀などとと共に150年の歴史を今にとどめています。
 警備に当たった南部藩士らには、異郷の地・室蘭で没した人も多く、中には、弱冠19歳の人も含まれています。これら藩士の墓の一部は、内陣裏の火薬庫跡地に安置されています。
     
   
   
   
 
   
   
   
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