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令和3年(2021)11月23日(火祝)

知事公館(札幌市中央区北1条西16丁目)、竪穴住居跡、流政之作「サキモリ」、村橋久成胸像、桑園碑

 休日出勤への通勤ラン途中、久々に公開していた知事公館に立ち寄った。灯台下暗し、ここにも史跡が溢れている。

【さっぽろ・ふるさと文化百選:知事公館】
 昭和11年(1936年)、当時の三井合名会社社長の三井高公の構想に基づき「三井別邸新館」として建築された。外観のデザインにはイギリスチューダー王朝風の建築洋式が取り入られ、梁、柱、内装材はすべて道産のナラ材、カバ材を用いている。当時は迎賓館、役員クラブとして使用されていた。昭和28年(1953年)道の所有となり、「知事公館」として会議や来客の応接に使われている。

 知事公館の敷地には、竪穴住居住居が点在している。整地されており窪みは確認できなかったが、地理的にはメム(泉)と小川が流れ、自然環境の中で住むには適していた地なのだと推測する。

【北海道知事公館構内竪穴住居跡のごあんない】
 北海道には、土器を使用していた時代(縄文時代、続縄文時代、擦文時代)の竪穴住居跡が、くぼんだままで観察できるところが多くあります。ことに都市化の進んだ地域やその周辺でみられることは、世界的にもめずらしいことで、考古学や人類学などの研究にとって恵まれた環境にあるといえましょう。
 明治年間に刊行された札幌沿革史などの記録によりますと、札幌地方で竪穴住居が多いところは、琴似川流域で、その数八百六十個と記されています。当公館構内にも十七個の竪穴住居跡が点在している様子が描かれており、約一千年の昔、春から秋にかけて遡上する鮭や鱒などを食料にした擦文文化期の人たちが、このキムクシメム(アイヌ語で、意味は、山際の方を通る泉の湧いている池)のほとりに居住したことを物語っています。
 擦文時代の住居は、地面に四角の穴を掘り、柱を立て、草ぶきの屋根をもっていたと考えられ、またカマドのある住居跡も見つかっています。
 ここでは、現状で保存していく考えから、竪穴のある地表に窪みを復原し、観察できるようにしました。  昭和57年9月 北海道・北海道教育委員会

 そして、敷地内には流政之氏作の「サキモリ」なるモニュメントがあった。そして、公館の北一条通り側の入口には、村橋久成の胸像「残響」が設置されている。

【村橋久成胸像「残響」】
 村橋久成(1842〜1892)は鹿児島県(薩摩藩)の人。幕末にロンドン大学に留学し、戊辰の役の箱館戦争では政府軍の軍監として活躍した。のち、開拓使に出仕して勧業事業を担当し、麦酒醸造所(サッポロビールの前身)をはじめ、琴似屯田兵村・七飯勧業試験場・葡萄酒醸造・製糸所・鶏卵孵化場・仮博物場・牧羊場などを創設し、北海道産業の礎となる。1882年に職を辞して行脚放浪の身となり神戸市外で没した。その業績は1892年刊行の田中和夫著「残響」で知られることになり、翌年には中村晋也日本芸術会員が胸像「残響」を制作。2004年2月に期成会が発足し、多くの方の賛同を得てこの像の建立をみた。2005年9月 村橋久成胸像「残響」札幌建立期成会 会長 木原直彦

 村橋久成胸像の奥の林の中に石碑が見えた。近寄ってみると「桑園碑」で石碑の裏にびっしりと文字が刻まれている。

【桑園碑】「歴史のあしあと 札幌の碑」さんを参考に転載
 桑園碑?文
地ヲ拓キ農ヲ勸ムルハ産業ノ夲源ニシテ一國富強ノ要務實ニ此ニ存ス大政維新ノ初北海道ニ開拓使ヲ置カルルヤ長官黒田清隆君諸僚ト謀リ大ニ力ヲ地益ノ開發ニ盡ス明治八年舊鶴岡藩士族百五十六人ヲ徴募シ札幌ニ移シテ荒蕪ノ原野ヲ開墾セシム諸士奮勉経書ヲ懐ニシ帯刀ヲ樹枝ニ懸ケテ鍬鋤ヲ握リ六月四日ヨリ九月十五日ニ至ルノ間札幌本廰以西ノ地二十一萬餘坪ヲ闢キ桑苗四萬株ヲ植ユ是レ即チ桑園ナリ官其功ヲ偉トシ宴ヲ設ケテ諸士ノ勞ヲ慰ラフ蓋シ兵農相依テ邊彊ヲ護ルノ實ヲ能ク顯彰セルモノナリ數年ノ後官桑園ヲ農蠶特志ノ人ニ分譲セント欲ス嘗テ森源三君職ヲ開拓使ニ奉シ專ラ教育勸業ノ事ニ任セシカ一時恰モ官ヲ罷メ自ラ農産ヲ興シテ大ニ國夲ヲ確立スルノ志アリ因テ桑園事務所跡地ヲ購ヒテ居宅ヲ設ケ以テ農事ニ従フ庭前ニ一大標木ノ桑園開拓ノ由来ヲ記スモノアリシモ既ニ腐朽シテ隻影ヲ留メス今ヤ嗣子廣君事蹟ノ年ヲ遂テ湮滅センコトヲ憂ヒ隣保有志ノ賛成ヲ得テ桑園ノ来由ヲ碑石ニ録シ永ク後昆ニ傳ヘシトス
 明治四十五年一月 看雨學人 村田峯次郎撰 壺川 林文?郎書 鈴木藤次郎刻
 桑園碑には由緒ある開拓者の歴史が刻まれていたいつの日か碑文は國富在農に改刻されて現在東門内にある先人の辛酸を道民とともに偲びたい念願から桑園振興会有志相計りここに碑を復元する 昭和四十年十二月

 概要としては、明治8年に鶴岡藩(現在の山形県)士族約160人が、札幌に置かれた開拓使本庁の赤レンガから西側の21万坪をわずか3か月で切り開き、ここに養蚕の基礎となる桑苗4万株を植えたのが桑園の始まりであり、実はこの桑園碑は昭和40年に有志によって復元されたもので、本来の桑園碑は、同じ敷地内の東側にある知事公邸側にある「國富在農」碑になるそうだ。その碑について訪問するのを忘れた。

   
    
 
 
 
 
 
   
 
 
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