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令和4年(2022)7月20日(水)

 諫早市

 出張二日目。諫早市における昼食会場の近くを散策。そこは多良海道という古道だった。そして、近くにあった安勝寺は本陣跡だった。そして、昼食会場の向こうの山の上にお城が見えた。ネットで確認すると「高城」とのこと。

【多良海道】諫早市ホームページから転載
名称:長崎街道ー多良通(たらみち)もしくは(多良海道(たらかいどう))
所在地:大越(諫早市高来町)〜七曲〜長坂〜山茶花茶屋(諫早市小長井町)〜船倉〜矢答峠(佐賀県太良町) 小川原浦(諫早市小長井町)
解説:多良海道(たらかいどう) 江戸時代初頭に佐賀藩が整備した長崎街道の第一の幹線で、諫早永昌から多良岳東側を通る有明海周りで鹿島・塩田を通り佐賀に至る。他の藩の領地を経由せずに長崎港警備や出島からの情報を伝達することができました。また、諫早の光江津(港)や太良の竹崎津(港)などで海路と接続して、有明海を渡って情報や物資を伝達することができました。 現在は舗装されているところが多いものの、大越(諫早市高来町)や長坂(諫早市小長井町)には、土道(つちみち)や道幅を示す石積などが残り、往時の街道の雰囲気をよく留めています。そして、沿道には山茶花の茶屋跡や郡境の石柱などがあり、江戸時代の街道を偲ばせる文化財が残っています。 長崎街道の中でも「多良海道」と呼ばれ、その他にも多良往還(たらおうかん)・多良通(たらみち)・諫早街道などの名称もあります。永昌宿(長崎県諫早市永昌町)、湯江宿(長崎県諫早市高来町湯江)、山茶花茶屋(長崎県諫早市小長井町)、多良宿(佐賀県太良町)などを経由し、塩田宿(佐賀県嬉野市)に至る総距離約48km(十二里八町)のルートです。 途中、湯江追分からは山あいのルートと有明海沿いのルートの二手に分かれ、多良宿で合流します。有明海沿いのルートは「竹崎街道」と呼ばれています。

【安勝寺:本陣跡】
 安勝寺は諫早家初代龍造寺家晴公から、領内真宗総道場の辞令を戴いた名刹で、大名やシーボルトなどの宿泊に使われた本陣です。厳かに建つ鐘楼は、諫早に初めて時を告げた「時鐘」で、昭和19年までの220年余の間、一日も休むことなく時を知らせました。

【高城城(別名:諫早城)】
 築城年代は定かではないが文明6年(1474年)頃に西郷尚善によって築かれたと云われる。 西郷氏は尚善の時に伊佐早次郎入道を討って、宇木城から諫早へ進出して船越城に入り、高城を築いてこれに移ったという。 天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった西郷氏は所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。家晴の子直孝の時、諫早氏を名乗り諫早家は独立した大名であったが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老となった。諫早氏は高城城を居城として維持していたが、五代茂門の時、財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居城とした。  
   
   
 
  
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