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天喜四(1056)年から康平六(1063)年にかけて、朝廷と俘囚(奥州安倍氏)が闘った「前九年の役」で軍功があった三浦為通が源頼義から三浦郷の地を与えられ、康平年間(1058-65)に築かれたと伝えられる。
治承四(1180)年八月、伊豆蛭ヶ小島に幽閉されていた源頼朝は伊豆目代の山木判官兼隆の館を襲いこれを討ち、平家政権に対して叛旗を掲げた。この時、衣笠城の三浦大介義明・義澄父子は頼朝の挙兵に呼応し、衣笠城を出撃したが、酒匂川の氾濫によって行軍を阻まれ、その間に頼朝ら三百の軍勢は石橋山で大庭景親ら平家軍三千と戦って敗れ、安房龍島へ逃れた(石橋山合戦)。そのため義澄らは衣笠城に退いたが、畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら三千に囲まれた。義澄らは義明の厳命により頼朝を追って安房に渡り、衣笠城に残った義明は激戦の末、自刃したとも、城下で江戸重長の軍勢に討たれたともいわれる。
鎌倉時代には三浦氏は有力御家人として勢力を持ったが、鎌倉幕府の権力強化を図る執権北条氏と対立関係を生じ、三浦氏は衣笠城を大拡張した。しかし宝治元(1247)年、三浦泰村一族は五代執権北条時頼、安達景盛らによって攻められ、一族郎党五百余人が自刃し、三浦氏は滅亡した(宝治合戦)。この時、三浦氏の一族でただ一人北条方に味方した佐原盛時は三浦介を嗣ぐことを許されたが、領地は三浦半島の南部に限られたため、衣笠城は廃城となったという。その後の佐原盛時の居城はのちの新井城であったとする見方もある。
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