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2010年(平成22年)10月16日(土) 
 家1340→藤沢 遊行寺1440 →藤沢駅  
   
 今日は残業明けで寝坊したため、近場をランニング。家から大船、藤沢の遊行寺、藤沢まで走り、公園で基本、形、筋トレをやりました
 大船に向かう途中、ヨーカドーに向かう道路の途中に、青山神社がありました。急な階段を上ったところです。この神社も古い。以下、ネットより。

社伝によると建武2年(西暦1335年)近藤出羽次郎清秀が領内笠間村の高所(現在の社地)に神社を建立し、近藤一族と領内鎮護の社としたという。
新編相模風土記には「青木明神社村の鎮守、村持」と記されている。
明治612月政令により村社に列せられ神饌幣帛供進神社に指定される。
明治41年村内の鹿島神社及び神明社を合祀 昭和25年鹿島神社を分祀昭和28年宗教法人青木神社として認証される。
その後社殿改造
境内整備 駐車場設置 社務所建設 宮神輿築造等、整備改善を経て現在に至り、郷土「笠間」の鎮守とし崇敬されている
↑大船の景色。鎌倉モノレール、大船観音、不思議な花。
↑藤沢の遊行寺。一遍上人開祖、時宗の総本山。以下ネット。

時宗は、七百年の昔、一遍上人がお開きになった念仏宗であります。
中国の唐の時代に善導大師が念仏の教えをさかんにされました。 平安末期になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて、浄土宗を開かれたのです。一遍上人は、浄土宗の一流、西山派祖證空上人の孫弟子に当ります。一遍上人のはじめられた宗派を、なぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。善導大師は弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も證空上人も一遍上人もそれにしたがいました。一日を六時(四時間づつ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。これを時間毎に交代します。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を修行しました。これも時間ごとに交代します。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。この言葉は他の宗派では、次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、「時衆」がこの教団の呼び名になりました。徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。

時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。この名号を、つねに口に称えて仏と一体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びに満ちた毎日を送り、やがては清らかな仏の国(西方極楽世界)へ生れること(往生)を確信する教えであります。時宗の教えは、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に拠っています。これを浄土三部経と申します。歴代の上人が、これらの経典に説かれている、念仏の教えをひろめるために、広く全国を巡るのを遊行(旅をしながら教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです。

2.宗祖一遍上人

一遍上人は七百余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。幼くして出家法然上人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと十二年。
のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって 念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。それからこの教えを総ての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。十六年間に、ほとんど日本国中を歩かれました。上人は正応二年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこに御廟があります。その伝記は国宝『一遍聖絵』にくわしく、またその教えは『播州法語集』としてまとめられております。

3.御賦算

遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。賦は「くばる」、算は「念仏札」であります。このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人々に一枚づつ手ずから配られます。一遍上人は、生涯に25万1千余人に配られたと記録されています。お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお札であります。「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と刷り込まれていますが、「決定往生六十万人」とは、六十万人の人々にお札を配ることを願われ、また次の六十万人の人たちに、ついには総ての人々(一切衆生)に配ることを、念願されたのであります。遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。

4.遊行上人と遊行寺


遊行寺は時宗の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。 一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。その志をつぎ遊行を代々相続する方を遊行上人とお呼びします。その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。遊行四代呑海上人は正中2年(1325)に、もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが遊行寺のはじまりです。遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、遊行をやめて「藤沢山・遊行寺に独住された上人を藤沢上人といいます。そして現在では一人の上人が "遊行上人"と"藤沢上人"の両方を兼ねておられます。


5.お別時と一っ火

この念仏会は、一遍上人以来今日まで、七百年も続けられている厳しい修行であります。明治のころまでは、12月24日から30日までの七日七夜に渡る行事でありましたが、近年では11月18日から28日まで執り行われ、27日夜には"御滅灯" の式、つまり"一ツ火" の儀式が行われます。この行事は、一年間の罪業を懺悔して心身共に清浄になって新しい年を迎えることと、さらに重要なことは、
極楽浄土への往生を体得することであります。この修行の中で最も厳粛なのは "一ツ火" の式であります。27日の夜は、堂内の一切の灯火が消されて、シ一ンと静まりかえった暗闇の中で式がはじまります。遊行上人の底力のある念仏が静かな堂内に満ちてくると、未法のこの世の中に念仏のみがただ一つの救いであること、胸の奥ふかく沁みとおるようであります。しばらくの間は、身じろぐものもありません。そして新しい火が打ち出されて、つぎつぎに仏前の灯火が点じられてゆきます。堂内が次第に明るくなって、居ならぶ修行僧の顔が見えはじめるころには、念仏の声も一段と高く、ひびきわたってゆきます。闇黒と光と念仏と……。人々はこの三つが織りなす雰囲気に感激し、念仏のありがたさを体得するのであります。ここに七百年の伝統の火が念仏とともに輝き出すのであります

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