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↑出発、我が官舎 |
↑イタチ川を上流に向かう |
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↑ナナカマドみたいな綺麗な実 |
↑柿の木 |
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↑河川沿いの小道はあっと言う間に終わり、環状4号を走る。柔道なのに角田道場 |
↑地元の人は何とも思わないと思うが、こちらにはこうした歴史的な碑が多い |
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↑イタチ川沿いの遊歩道、しかしマムシ注意の看板!! |
↑庄戸5丁目の住宅街から、金沢市民の森に入る |
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↑階段から望む |
↑あっと言う間に、横浜市最高峰、大丸山(横浜市最高峰156m) |
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↑横須賀方面の景色がよい |
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↑高速道路を横切る |
↑金沢動物園で、セグウエイに乗るおじさん |
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↑自然公園の展望台にて |
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↑金沢八景の街にでたら、新極真会木元道場の看板、懐かしい。その横にはラーメン屋があり、結構混んでいる。腹が空いたので、入ってしまった。 |
↑うめや特製つけめん。チャーシュー3枚と卵付き。スープは豚骨ベースに魚介を混ぜたスープ。店も清潔感があり、スタッフの対応も良く大満足。 |
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↑腹がふくれて動きがたいが、体にむち打って、最後の目的地、称名寺へ。金沢文庫駅をすぎて、また山に入る。結構な登りで、景色が良くなってきた。 |
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頂上の八角堂。以下ネットより。
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標高76メートルの金沢山の頂上にあります。1935年(昭和10年)に建立称名寺の復興に力を尽くした人でかつて西柴団地内の金沢町第二公園付近に広大な別荘を構えていた大橋新太郎氏が建立したといいます。落成式は北条実時公の660年記念大法要に合わせて盛大に行われたといいます。八角堂には長浜観音様が据えられ戦前はお参りの人で賑わったそうですが・・・しかし戦時中観音様が破損したこともあり称名寺の金堂に移されています。八角堂はその後も色々ありました財政危機による称名寺の衰退や金沢三山の開発のピンチ・・・なんとか乗り越えいまがあるんですね
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北条実時の墓。
以下、ネット。北条実時(1224〜1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時よしときの孫で、貞応じょうおう3年に実泰さねやすの子として生まれました。 実時は、引付衆ひきつけしゅうや評定衆ひょうじょうしゅうなど幕府の要職を歴任し、文永ぶんえい3年(1275)には越訴奉行おっそぶぎょうをつとめています。 政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業べつぎょうを開き、金沢文庫の礎を築きました。 墓地内中央の宝篋印塔ほうきょういんとうは、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔ごりんとうは一門の墓といわれています。 また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。
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↑称名寺です。金沢北条一族の菩提寺だそうな。以下、ネット。
称名寺しょうみょうじは、金沢山きんたくざん称名寺と号し、真言律宗りっしゅうの別格本山として西大寺末の律院りついんで、本尊には木造弥勒菩薩立像みろくぼさつりゅうぞう(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。 本寺は、金沢北条氏かなざわほうじょうし一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉しょうか2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224〜1276)が、六浦荘むつうらのしょう金沢の居館内に営んだ持仏堂じぶつどうから発したと推定されています。 その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍がらんの整備が着手され、実時の子、顕時あきとき(1248〜1301)の時代には、弥勒堂みろくどう、護摩堂ごまどう、三重塔さんじゅうのとうなどが建立され、さらに、顕時の子、貞顕さだあき(1278〜1333)は伽藍の再造営を行い、元亨げんこう3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵らいごういたえ(重要文化財)に荘厳された金堂こんどうを初め、講堂こうどう、仁王門におうもんなど、七堂しちどう伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅じょうどまんだらにもとづく伽藍を完成させました。 しかし、元弘げんこう3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。 大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。
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