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2011年(平成23年)10月16日(日) 

根岸駅〜三溪園〜八聖園〜本牧〜ワシン坂〜山手本通〜地蔵坂〜打越〜唐沢〜平楽〜山谷〜南区榎木町

 10時〜12時半頃
 
   
  昨日は残業で終電。しかも帰ってから新調のパソコンを設置・設定したので、寝たのは3時。寝坊して9時頃起きたので、今日も近場のランニング。またしても、今日は近場の横」浜をランニング。行ったことのない三溪園などに行ってきました。
 駅を出てすぐのところに白滝不動尊がある。都会なのに小さな滝がある 
 
   
 
 
 
   
 次に訪問したのが三溪園。入場料が500円だったが、その値はあった。以下、ネットより拝借。

三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)。
岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。
   
  次に近場の八聖殿。

 八聖殿は、法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物で、熊本県出身の政治家で逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵(1864〜1948)が建立し、1933(昭和8)年に完成しました。
1937(昭和12)年、横浜市に寄贈され、建物の周辺一帯は本牧臨海公園となり市民の憩いの場として整備されました。
1973(昭和48)年「横浜市八聖殿郷土資料館」と改名され、市民に郷土の歴史を伝える資料館として、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具を中心に展示しています。
 
   
  ワシン坂から山手本通りを走る。洒落た街並みだ。ちょうどフェリス女学院の学祭だった。
  
 唐沢公園は横浜を一望できる場所だ。
   
  丘の上は米軍住宅。坂を下りると鎌倉街道沿いの庶民の町でした。赤マムシ屋があった。怖い怖い。

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