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2011年(平成23年)11月23日(水)勤労感謝の日 

平塚市追分〜高根〜南金目〜東海大学〜真田〜東海大学駅前

 8時〜10時半頃
 
   

 今日はうれしい祝日。子供たちは平塚のキッズマラソン大会に行くのだが、平塚まで車で送って、その後、カミさんにお許しを得て、平塚市内を走ることに。平塚には結構、史跡があるのだ。
走り始めてすの大久保公園のところに、に道祖神がある 昨年登った、高麗山。
   
 大山と丹沢山系が見える 高根の山下長者屋敷跡 
   
 高根の「山下長者屋敷跡」以下ネット。

『新編相模国風土記稿』の山下村の項に、「山下長者宅蹟西南方にあり。広さ四反許、村民の宅地となる。南西北の三方に土手(高さ八尺許)跡あり、形ばかりを成す。長者の事蹟詳ならず」とあります。
この遺構は、山下長者屋敷といわれ、多くの伝説を秘めています。その一つとして、富士裾野で父の仇工藤祐経を討った曽我兄弟の兄、十郎祐成を助けた虎御前は、この館で誕生したといわれています。
虎女住庵の跡。以下、ネット。

『新編相模国風土記稿』の山下村の項に、「虎草庵の跡 長者宅蹟の傍にあり。建久4年(1193)5月 曽我祐成討たれし後、大磯の虎尼となり此所に閑居せしと伝ふ」とあります。『曽我物語』には、虎女は高麗寺の奥に籠もるとありますが、その「高麗寺の奥」がこの地ではないかと推定されています。虎女は53歳で生涯を閉じたといわれ、住庵跡背後の竹薮中にある古い卵塔(無縫塔)一基がその墓と伝えられています
   
ひこばえの田んぼとハウスの向こうに丘の住宅街。住所は日向岡。 菊とレタスとキャベツがきれいだ
   
 富士山も見える 金目観音堂。 
   
 坂東三十三所観音霊場の第7番の札所で、縁起では大宝2年(702)に小磯の浜で観音小像を感得したのが始まりと伝えられています。
  現在も坂東の札所巡りの人たちが多く参詣に訪れていますが、市域では金目観音は安産祈願のお堂としても知られています。
ここには堂宇(どうう)を管理する光明寺のほかに、仁王(におう)門、鐘楼、文殊(もんじゅ)普賢菩薩(ふげんぼさつ)堂があり、庚申塔(こうしんとう)、地蔵、万句碑などの石仏・石塔も多く建立されています。観音本堂の左手には宝形造りの歓喜堂が建っています。本尊は「大聖(だいしょう)歓喜(かんき)自在天(じざいてん)」、略して「聖天(しょうてん)」とか「歓喜天」といいます。聖天は象の頭を持ち、人間の躰をした魔神といわれています。聖天を信仰するとすべての災厄を除去し、富裕になり、夫婦和合、子授けの願望が叶(かな)えられるとして、多くの人々の信仰を集めています。
   
 東海大学の門の前にやまと豚の看板  
   
   
東海大学はでかい大学だ。スポーツ施設が充実している。 
   
真田神社。大きな欅の木がある。 
   
真田神社の近くに天徳寺がある。 
   
寺の近くに神社があり、そこは真田城だったという。 以下ネットより由来。
 現在の天徳寺は、天正二年(1574)にすでに廃城になっていた真田城の地に建立された(『新編相模国風土記稿』)。築城は鎌倉時代で、治承四年(1180)源頼朝の石橋山合戦に参戦・討死にした真田義忠の拠点であった。その後、戦国時代に北条早雲が小田原城を大森藤頼から奪うと、彼は真田城に逃げ、三年間に亘って攻防を繰り広げたものの明応七年(1498)に落城した(『かながわの城』)。また、周辺の造成時に空堀が出土し、『新編相模国風土記稿』に「四方に堀の跡あり」と記された裏付けがなされたが、調査後、開発のために破壊されたようである。平塚市真田、大根川に架かる真田橋の南・天徳寺が城址。
   
 大山がきれいに近くに見える 東海大学駅前。学生がたくさん降りてくる 

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