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2012年(平成24年)1月2日(月) 

成田街道の旅(勝田台〜成田)

 8:35 勝田台
 9:34 臼井
10:15 佐倉
11:30 本佐倉城跡
13:30 成田
   
 本年最初の街角ランニングは、成田街道。「首都圏旧街道を歩く」では、佐倉から成田までの約11kmしかないため、手前の勝田台から走ることにする。
加賀清水。看板によると大久保加賀守忠朝(1678〜1686)が愛飲し、江戸への往来の時に必ず立ち寄ったところから、加賀清水、または井野清水と呼ばれるようになったという。その後、成田街道脇の林家という茶屋がこの清水を客にふるまっていた。
   
 ユーカリが丘駅。マンションも多く、サティなどもあり、新しい街だ。  臼井の道路元標
   
   臼井城跡に登る。以下ネット。
臼井城跡は、臼井氏によって築かれたといわれますが、16世紀中頃には原氏が臼井城主となります。戦国時代に原氏は、千葉氏をも凌ぐ勢力となり、永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退しています。しかし、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡し、翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城します。慶長9年(1604)12月に家次が上野国高崎に転封されると臼井城は廃城となりました。 臼井城は、「城ノ内」と呼ばれる区画が城の中心となり、この部分から多くの陶磁器が出土しています。その前面には「御中城」と呼ばれる区画があり、この2つの区画が臼井城の中枢と考えられます。これらの区画の周辺には、家臣屋敷や寺社が設けられていましたが、その外側を土塁や堀によって区画することによって、城内に取り込んでいったとすいていされます。現在「大名宿」「外城」「寺台」などの地名が残されています。

 永久2年(平安時代1114)千葉介常兼の三男、臼井常康が築城したことに始まるといわれ、空堀や土塁が残っている。 宝治元年(1247)北条氏と三浦氏との衝突時に三浦氏に組した臼井太郎、次郎が敗死して臼井氏衰退する。文明11年(1479)大田道灌、千葉孝胤の守る臼井城を攻撃し落城する。1550年頃、原胤貞、臼井城を奪取し以後、源氏の本城となった。永禄9年(1566)里見義弘が要請し上杉兼信が来攻、これに勝利する。天正18年(1590)豊臣秀吉により小田原、北条氏が敗れ共に臼井城も落城原氏も滅亡した。天正19年に徳川家臣の酒井家次(三万石)に与えられたが、慶長9年(1604)高崎に転封になり廃城となった。波乱万丈の歴史を刻んでいる。 現在は公園として整備され、二の丸跡には芝生広場で周囲には四季折々の花、樹木と、
ここから印旛沼を見渡す景色は第一等です。

 平安時代末から鎌倉時代初めにかけて、千葉氏一族の臼井常康が築城したといわれ、現在も空掘りや土塁が残っている。
   
臼井から佐倉に走る。橋から佐倉城を望む。 
   
   
 佐倉城。以下ネットより。
 

天文年間、本佐倉城主・千葉親胤が一族の鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、完成前に親胤は家臣に暗殺され、幹胤も一時期ここに館を構えたが、死去により工事は中断した。天正年間に千葉邦胤が中断された工事を再開し、この地に本城を移そうとしたが、邦胤は天正十三(1585)年に家臣の桑田(一鍬田)万五郎に殺されふたたび工事が中断、天正十八(1590)年の小田原の役を迎え千葉氏は滅亡した。

慶長十五(1610)年、徳川家康の命で土井利勝が小見川領から佐倉領に入封し、未完の鹿島城を整備拡張し現在の佐倉城が築かれた。土井氏が古河城に移った後は石川氏、松平氏、堀田氏が入封、堀田氏六代ののちに廃藩置県により廃城となった。城地は戦前、第一軍管第二師営、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などが置かれ、地形が改変された。

   
佐倉城近く麻賀多神社  佐倉の街並み
   
 佐倉の街並み 
   
   
 本佐倉城。道路からかなり外れているので迷ったが、この辺で中世から存する唯一の城ということなので、足を延ばした。田園地帯の中を走り、往復30分以上をかけて行く。手作りの説明看板などもあり、わかりやすかった。以下、ネット。
 

康正元(1455)年、前年から勃発した「享徳の大乱」に、鎌倉幕府創設以来の名族・千葉氏も巻き込まれ、亥鼻城を本拠にしていた千葉宗家は、一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに攻められ、亥鼻城は落城、千葉胤直・胤宣父子は千田荘の志摩城多古城で自害し、千葉宗家は滅亡した。康胤は後に千葉氏を名乗った(後期千葉氏)。康胤の孫・輔胤は文明年間に、亥鼻城に代わる本拠としてこの地に築城した。文明三(1471)年には長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は千葉氏を頼ってこの本佐倉城に落ち延びたと言われる。

その後は千葉氏の力は徐々に衰え、北条氏の介入により北条氏政の子、直重を当主に迎え入れるなど、事実上北条氏勢力下に併呑された。かつての家臣であった小弓城の原氏、小金城の高城氏らは独立領主化して北条の直参となった。天正十八(1590)年、小田原の役で千葉氏は改易され断絶、佐倉領は徳川譜代の内藤家長によって接収された。慶長十五(1610)年に土井利勝が入封し鹿島台に佐倉城を築城、元和元(1616)年の一国一城令で本佐倉城は廃城となった。

   
成田市に近くなると、道標が多くなる。左側は珍しい木の道標。 
   
   
 成田山新勝寺の参道はすごい人で、お参りの人で門の外まで並んでおり、お参りすることは断念して帰りました。

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