慶元寺(喜多見4丁目)
「喜多見」は、昭和初期までは東京府下北多摩郡「砧村」喜多見と称していたが、江戸時代は「喜多見村」であった。現在の皇居の辺りを治めていた江戸氏が太田道灌によって追われて隠れ住んだのがこの地であり、江戸氏の名前も変え「喜多見氏」と名乗るようになった。日本の歴史では「江戸時代」というが、この頃には江戸氏は既に存在せず、地名だけが残ったものである。なお、喜多見氏は徳川家康に召し抱えられ、以後累進して二万石の大名にまでなるが、元禄時代に刃傷沙汰を起こしお家断絶となってしまった。
その「江戸氏」の菩提寺がここ慶元寺である。
ここは鬱蒼とした森に覆われており「せたがや百景」の60番に指定されている静寂な場所で、山門の脇には次のような掲示が立てられている。
「永劫山華林院慶元寺 浄土宗京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来座像である。当寺は、文治二年(1186)三月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し、天台宗であった。
室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後、天文九年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め永劫山華林院慶元寺と改称した。更に文禄二年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和二年(1616)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永十三年(1636)には徳川三代将軍家光から朱印状を賜った。
現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏、喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木造が安置されている。山門は宝暦五年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものである。境内には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基が現存している。
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