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2012年(平成24年)1月14日(土) 

狛江、喜多見近辺

9時頃〜12時頃   
 中野島に水取りに行くついでに、喜多見駅、狛江駅周辺を走ってきた。小田急沿線の自然ふれあい歩道のパンフレットに沿って走った。
 http://www.odakyu.jp/walk/18/2.html へのリンク

   喜多見不動尊。上は水が湧いていて信者が水行したという。。
後で出てくる慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王。
   
 
神明の森みつ池というのが喜多見不動尊の近くにあり、そこから湧いている水が、成城の高級住宅街を通って野川に注いでいる。 
   
 明照院。
室町時代に開かれた天台宗の寺院。近くに糟嶺神社がある。寺と神社が一体になっている場合が多い。
 野川緑地公園を通って狛江駅へ。
次に、狛江駅から岩戸川緑地公園を走る。これがまた迷うのだ。
   
   
高級住宅街の真ん中に、木に囲まれた参道がある慶元寺がある。ここも古い。
1186年に江戸氏が建てた江戸氏の菩提寺。 以下ネットから拝借。
慶元寺(喜多見4丁目)

 「喜多見」は、昭和初期までは東京府下北多摩郡「砧村」喜多見と称していたが、江戸時代は「喜多見村」であった。現在の皇居の辺りを治めていた江戸氏が太田道灌によって追われて隠れ住んだのがこの地であり、江戸氏の名前も変え「喜多見氏」と名乗るようになった。日本の歴史では「江戸時代」というが、この頃には江戸氏は既に存在せず、地名だけが残ったものである。なお、喜多見氏は徳川家康に召し抱えられ、以後累進して二万石の大名にまでなるが、元禄時代に刃傷沙汰を起こしお家断絶となってしまった。

 その「江戸氏」の菩提寺がここ慶元寺である。

 ここは鬱蒼とした森に覆われており「せたがや百景」の60番に指定されている静寂な場所で、山門の脇には次のような掲示が立てられている。

永劫山華林院慶元寺 浄土宗京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来座像である。当寺は、文治二年(1186)三月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し、天台宗であった。

 室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後、天文九年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め永劫山華林院慶元寺と改称した。更に文禄二年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和二年(1616)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永十三年(1636)には徳川三代将軍家光から朱印状を賜った。

 現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏、喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木造が安置されている。山門は宝暦五年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものである。境内には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基が現存している。 

   
稲荷塚古墳。直径13m、高さ2.5mの円墳。古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長の墓ではないかと言われている。 
   
 喜多見小学校発祥の地に銀杏の大木  氷川神社。結構立派な神社だ。
ネットによると次の通り。
当社は天平十二年(七四〇)の創建と伝えられているが、延文年間(一三五六〜六0)に宮殿大破し、ついで多摩川洪水のため古縁起・古文書など流失して詳細は明らかではない。古く多摩川岸に近いところにあったという。
 永禄十三年(一五七〇)この地の領主江戸刑部頼忠(東京の開祖江戸重長の末流で後に喜多見氏と改めた)は当社を修復し国家安泰・武運長久を祈願し、天和二年(一六八二)喜多見若狭守勝忠は篤く当社を敬い神領五石二斗を寄進し再興す、慶安二年(一六八七)喜多見若狭守により再建せられた。
   
喜多見商店街の蕎麦屋で、辛カレー南蛮うどんと、鶏牛蒡ご飯を食べる。 うまかった。

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