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2012年(平成24年)3月11日(日) 

大倉山駅〜大倉山〜獅子ヶ谷〜鶴見図書館〜鶴見駅

11:30頃 大倉山駅
14:30頃 鶴見
   
 今日の午前中は、昨日の疲れもあり寝坊した。小田原マラソンにエントリーしていたが、キャンセル。また、午前中少し掃除もしたので、出遅れてしまった。このため、今日は東急線の大倉山から獅子ヶ谷の昔の旧家を見て、鶴見に向かいました。
   東急東横線大倉山駅。駅周辺は商店街だが、その周りは高級住宅街。
   
 丘を登ると、大倉山記念館だ。外も中もドラクエの世界だ。以下、ネットより。

現在の横浜市大倉山記念館は、実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(1882-1971)により昭和7年(1932)「大倉精神文化研究所」の本館として創建されました。
 設計は、北海道銀行本店、横浜正金銀行東京支店など重厚で格調高い建築を数多く手がけ、日本建築史に大きな足跡を残した古典主義建築の第一人者、長野宇平治(1867-1937)です。
 研究所の設計をするにあたり、「東西文化の融合」を掲げた大倉邦彦の理想に深く共鳴した長野は、古典主義にとらわれることなく、古代ギリシャ以前の”プレヘレニック様式”という世界的にも希少な建築様式を用いたのみならず、東洋の意匠も取り入れ、まさに東西文化が溶け合った独特の様式美を持つ建造物を創り上げました。
 昭和56年(1981)横浜市が寄贈を受け、大改修のうえ建物の保存を図るとともに、昭和59年(1984)横浜市大倉山記念館として生まれ変わり、平成3年(1991)には横浜市指定有形文化財に指定されました。
 開館以来、1万人以上の入場者を集める「大倉山秋の芸術祭」、こどもの日にちなんだ「こどもフェスティバル」、12月の「小さな丘のメリークリスマス」、など地域に密着した催し物が多数行われる文化施設として市民に親しまれています。
 また、ギリシャ神殿様式のピロティー、昭和初期の雰囲気を残す第5集会室、神社建築の木組みを取り入れたホール、エントランスなど、映画やテレビのロケ地としても数多く活用されています。
   
丘の上からは、都会の街並み。梅も咲いて綺麗でした。 
   環状2号線(県道17号線)を走る。トレッサ横浜が見えたら、右折。
   
   
   
 獅子ヶ谷の横溝家住宅。名主の家だそうだ。以下、ネット。

 横溝家の屋敷がある鶴見区獅子ヶ谷町は横浜市の東北部に位置し、鶴見川の南岸に拡がる沖積地に張り出した丘陵の先端部にあります。鶴見川は以前は相当の暴れ川で、毎年のように流域に水害をもたらしていました。かつて、この中流域一帯は豊かな水田地帯でしたが、現在は工場や宅地に変わっています。

 『新編武蔵風土記稿』によれば、獅子ヶ谷は古くは師岡郷(もろおかごう)といい、師岡村から分かれたとされています。地名の由来は当地が熊野権現の所領で、獅子舞を受け持ったことによると伝承されています。

 獅子ヶ谷村の石高は、正保時代(17世紀中頃)に244石余、元禄、天保、明治元年ではともに309石余という記録が残っています。また、家数と人口は文政10年(1827)で、38軒と226人、安政2年(1855)には39軒と244人、明治3年(1870)では42軒と278人となっています。

 横溝家は16世紀末、慶長年間に獅子ヶ谷村の名主を務めて以来、江戸時代を通じて代々名主を務めた家柄で、現在17代目を数えます(初代は横溝五郎兵衛(ごろべえ))。当家は江戸時代には、鶴見川の沖積地を開墾して水田を拓き、二ツ池や溜井を確保し、村内に本覚寺を建立するなど多大の貢献をしてきました。また明治期には、養蚕や製茶業も盛んに行っていました。屋敷地が谷戸(やと)の入り口の御園(みその)と称される最良地に位置するのも以上のような歴史的な背景に由来するものと考えられます
   
   獅子ヶ谷市民の森。頂上らしきところに祠がある。そこから、獅子ヶ谷鶴見線を通って、鶴見図書館へ。
   鶴見図書館の横の公園でトレーニングをする。なんと、この通りは旧東海道だったのだ。ここを走ったけど、記憶ない。
   
   
   

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