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2012年(平成24年)12月2日(日)

7.11マイル(11.44km) 1:49:29(10:15時頃スタート)

江差町(開陽丸〜八大龍王神本宮〜西別院〜旧檜山爾志郡役所〜東別院〜姥神大神宮〜鴎島) 乙部町光林荘で日帰り温泉。

 冬になって、札幌に帰るのも面倒くさくなったので、今週はこちらにいることにした。昨日の土曜日は荒れ模様の天気だったが、今日は比較的穏やかだ。南が吉方なので、江差町に行ってみる。前から歴史ある町並みをゆっくりと走ってみたかったのだ。
 北海道にもかかわらず江戸時代からの寺社仏閣が数多くあり、歴史を堪能できたマラニックでした。
 
   
   
 
八大龍王神八江聖団本宮。ウイキペディアより拝借。

 教団創設者である出村龍聖は、軍人として海兵団に入団。終戦で江差に帰郷。幼少より信心深い出村龍聖は、当時混沌とした世相に直面して、宗教心を以てこの社会を乗り切ろうと日々の生活の精神的基盤に1947年より滝修行・断食など荒修行を励行するうち八大龍王神に憑依される。1949年江差に於いて八江会を設立。国内外の情勢や個人の未来などを神示によって予言したり、除霊や病気治癒に勤しむ内、教勢は北海道全土に広まった。1957年八大龍王神八江聖団と改称。やがて出村龍聖と共に修行する者の現れ、信者の中には霊視体験をする者がでた。また、木製の神札に出村龍聖が入念して祓えば金粉・金箔などが湧き出したといわれ、吉凶の前には木製の神札が神前から数メートルを飛翔し神より啓示されたとも伝える。1980年に出村龍聖は失明してしまうも、心眼にて御神体の心眼一事龍、肌守り等を書き記し、本宮と札幌分宮を担当した。この頃には、子息の出村龍日がその他の分宮・支部を布教指導する様になっている。1989年出村龍聖逝去後は、出村龍日が後を継いだが、神懸り的な出村龍聖を失い教勢を落とした。1992年に現在地に本部を移転し、現在に至る。
   
   次に、西別院。ここもとっても古そう。本願寺だけあって、お堀もあり、闘う宗派の残りだ。本堂も庫裏も古い。以下、朝のネットより拝借。

本願寺江差別院(西本願寺)は、今から約130年前に建立された願乗寺休泊所が前身で、明治11年に本町の現在地に移転、堂宇を新築しました。さらに翌年の明治12年には名前を本願寺と改称し、この付近がお西町と呼ばれるようになりました。物には近江商人たちが故郷から材料をわざわざ切り出して、
北前船で運んできたものを使用しています
   
 軍艦「開陽丸」もあわせて江差にやってきましたが、明治元年11年15日(いまの暦だと12月28日)暴風雪のために座礁してしまいました。それを見た土方はいたく嘆き、いまの「旧檜山爾志郡役所」前にある松をこぶしで叩きました。いま松の幹が曲がっている部分が瘤(こぶ)のようになっているのは、土方の叩いた跡だと伝えられています。(「江差百話」など  延宝6年(1678年)、江差地方に自生するヒノキアスナロの伐採取締番所として、檜山番所が上ノ国から江差に移転。その後、江差西在郷の行政経済を総括する藩府として檜山奉行所と改称されました。明治12年(1879年)には道内各所に郡が設けられ、檜山郡と爾志郡には二郡を管轄する郡役所として檜山爾志郡役所が設置されました。
   
次に東本願寺別院。ここは板で覆われている。暴風雨を防ぐ知恵だ。以下、振興局のネットより拝借。ここも古い。

函館方面から江差町に入ると、山の中腹に建つ重厚な山門と大きな瓦屋根がひときわ目を引きます。北海道に6ヶ所ある真宗大谷派別院のひとつとして由緒ある寺院です。
 現在の本堂は1891(明治24)年に明治期を代表する寺社建築の棟梁「九代目伊藤平左衛門」によって設計され、京都本山東本願寺の両堂、函館別院本堂(重要文化財)等に並ぶ貴重な建物です。
 境内には「江差追分の始祖、佐之市の碑」があり、毎年全国大会の前に追弔法要が取り行われています。
 
   
   次に禅宗の寺、金剛寺に行く。何てことない寺だが、剣道十段小黒光雄の碑がある。
   
 17世紀のおわりから明治30年代まで、松前藩きっての豪商として江差で回船問屋を営んでいた関川家の別荘には、江差最盛期のころの様子を伝える貴重な古文書や調度品が大量に保存されていました。建物は、昭和61年度で全て修復が完了し、保存されていた調度品も建物と同時に昭和62年度から公開しています。
関川家は江差随一と歌われた豪商でした。初代関川与左衛門が1600年代のおわりに越後(新潟県)から松前福山城下に移り、間もなく江差の姥神町に定住しました。二代目になって家業の酒屋から事業を拡張し、沖の口業務に加えて、回船業や米穀問屋、金融業、醸造業などを経営し繁栄の基礎を築きました。関川家では最盛期3隻の北前船をもっており、その他にも10隻を買い入れて、本州各地との交易で事業を拡大してきました。在郷商人の第一人者として、また、松前藩の御用商人として代々名字帯刀を許され、松前藩第一の豪商の名をほしいままにしてきました。明治30年代、関川家は9代目の代になって江差を離れるまでの200有余年、江差の町づくりに数々の貢献をしてきました。古くは安政5年(1858年)、弁天島(鴎島)の灯台設置。明治になると小学校や公立病院の建築などに私財を寄付。さらには道議会開設の提言者として、自治制度施行に大きな功績がありました。
   
   
   
   旧関川家別荘の裏に、小山があり、お地蔵さんが並んでいる。そこを登るとお堂があり、中を見ることができた。観音様と蛇がま連れている。ここから海も見えた。昔の人は信心深かったが、今では寂れている。
   
いにしえ街道を通って、姥神大神宮に行く。この中には小さな社もあり、結構古い。
収穫だったのは、大田・狩場・鶉山道を拓いた鈴鹿甚右衛門の碑を見つけたことだ。 
   
   
   
  
   
   
 
 
   
 
 
 
 最後に鴎島を一周。

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