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2013年(平成25年)8月11日(日) 10:30頃出発

上ノ国町道の駅もんじゅ〜夷王山(159m)〜夜明けの塔〜花沢公園〜小森集落〜中須田〜上ノ国中央商店街〜須崎館跡〜向浜〜国道に出て〜旧笹浪家住宅〜もんじゅ
約19km約3時間

 今日は昨日、飲みすぎて二日酔いだが、前から狙っていた上ノ国町界隈を走ることにする。
 江差は姥神神社のお祭りだが、それを横目に上ノ国に向かう。街の中に車を停めようと思ったが停めるところがないので、いつものごとく、道の駅に停める。
 道の駅を出発して夷王山へ走り登る。昨日の酒が汗となって出てくる。夷王山まではあっという間に到着。頂上では妙齢のお姉さん二人が植物を観察していた。山の上で少し稽古する。それにしても、この山は室町時代から拓かれていたのだと思うと感慨深い。30分ほど後、資料館に寄る。資料館の職員のおじさんに夜明けの塔方面の道路が花沢につながっていることを聞き、そちらに急遽変更する。褐毛和種が放牧されている牧草地と風車を眺めながら花沢公園に到着。公園の裏が花沢館跡かと思ったが、違うようだ。そして、そこから小森集落を通って中須田集落に向かうことにする。
 しかし、この道は人家もなく、鬱蒼とする森の中の道なのだ。熊が怖く、鈴を鳴らし、山菜ナイフをポケットに入れて走る。集落に入るまで結構長かった。天の川を渡ると、畑地帯で、中須田集落である。ここから上ノ国の中心街に戻る。途中、やはり古い街なのか、神社も多い。また、北海道では珍しい瓦屋根の豪邸もある。
 この道は、気楽に走れるので、あっという間に上ノ国の中心街に到着。そこから須崎館跡(砂崎神社)に向かう。ここは蠣崎氏が夷王山に移る前の拠点だったそうだ。砂浜の中で少し高台であるので、軍事拠点としてはいいところなのだろう。
 そこから、国道に戻り、旧笹浪家住宅に初めて寄る。受付のお姉さんが、やさしく冷たい麦茶を出してくれた。そこから道の駅文殊に戻りました。
 帰りは、花沢温泉でヒトっプロ浴びて、せたな町に帰りました。
 
 
  夷王山を望む 
   
夷王山は、松前氏の祖武田信廣や蠣崎氏一族の
居館・勝山館の「詰めの丸」ともいわれ、
標高159mの山頂には武田信広を祀る夷王山神社
(古くは薬師如来などを祀り、医王山頭陀寺と言った。)があります。
 山頂に登ると、かつて日本海交易の出船入船で賑わいをみせた天ノ川河口や
大澗、奥尻島や大島が浮かぶ日本海が一望できます。
山裾には、勝山館に居住していた人々の墓と
推測される600余りの墳墓を示す白い墓標が
海風の中に立ち、その数の多さに驚かされます。
 近年、仏教様式の墓に混じってアイヌの葬法に従った墓が発掘され、
和人とアイヌの関わりを示す重要な発見とされています。
 また、平成17年度にオープンした
勝山館跡ガイダンス施設には、勝山館跡出土品や
墳墓のレプリカも一部展示されています。
 
 
 
 
 
 
 
   
   
   
   
 中須田神社 瓦屋根の豪邸 
 
ふくろうのパワー
1 首が回る
2 目がきく
3 つかむ 
4 福を呼ぶ
5 羽ばたく
 
   
 
本道最古の記録である「新羅之記録」(しんらのきろく)には、
長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで功をあげた
武田信廣が上之国守護蠣崎季繁の養女である
安藤政季(あんどうまさすえ)の娘を妻とし、同年築いた館であると記録されています。
 また松前藩の記録である「福山秘府」(ふくやまひふ)には、
信廣はこの時、「建国の大礼」(けんこくのたいれい)を行ったとの記述もあります。
その後信廣は夷王山の麓に勝山館を築き、松前藩300年の基を作りました。
 昭和30年頃から、銭2,500枚、青磁、白磁等が採集されていました。
近年一部の発掘調査が行われ、珠洲(すず)焼の擂鉢等をはじめ、
青磁、白磁等の14〜15世紀代の陶磁器や建物の柱穴等の遺構が
発見されました。しかし、館主要部と目される砂丘上の遺物、遺構は希薄であり、
主に旧目名川沿いの低地部、砂館神社参道入口周辺部に
集中する形で発見されました。この上ノ国地区では建物等の遺構の時期が
2期あり、14世紀代の陶磁器も発見されています。
 また、10世紀頃の多量の擦文土器、さらに青森五所川原産須恵器や
本州産土師器も発見されています。これらのことから天の川河口付近という
地の利を生かした土地に10世紀頃から人々の居住空間がつくられ、
さらにはここを交易拠点とする、在地の勢力がコシャマインの戦い以前
からあったと考えられるようになりました。
今後本格的な発掘調査を行い、館の全容や構造を明らかにする必要があります。
 
   
   
 
旧笹浪家住宅 
   
 

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