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平成30年5月26日(土) 

 根室市明治公園〜トーチカ跡〜友知〜双沖〜歯舞〜珸瑤瑁〜ポンモイチャシ跡〜納沙布岬

約21.7km 2時間59分

 2回目の根室居住でまずは走って行ってみたいところの一つが納沙布岬にあるポンモイチャシ跡と寛政の蜂起和人殉難墓碑であった。絶好のランニング日和である快晴の中、明治公園を出発。根室高校の坂を降りると右手にボスケットというイタリアンレストランが見えてきて、その後ろにトーチカが見えてきた。
 レストランに断って、その裏のトーチカに近づき見学。トーチカは、戦時中に海岸からの外国からの侵攻に備えた監視施設である。中も入れるようだが、ちょっと気持ち悪いのでやめる。近くの砂浜で、おばさんが浜ボウフウを採っていた。
 そこから友尻、双沖、歯舞と走っていくが、やたら遠く感じる。ペースも荷物を背負っているからか、1km当たり7〜8分とやたら遅い。昔走った時と違う感想は、神社が結構あることに気が付くことと、珸瑤瑁に風力発電が増えたことだ。
 
 納沙布岬手前の住宅街の向こうにポンモイチャシ跡があった。標柱が建てられているが、歴史的な経緯はわからない。小さい半島になっていて、ネットによると空濠がある。この地は展望が利くので昔アイヌ民族が見張りの施設だったのだろうと推定する。
 ポンモイチャシから納沙布岬にすぐに到着。昔に比べ右翼による領土返還の石柱が増えていた。
 
 岬に着いて、個人的にレポートしたかったのが、根室市指定文化財「寛政の蜂起和人殉難墓碑」である。説明板を転載。

(転載はじめ)
 寛政元年(1789年)5月、和人のアイヌ民族に対する脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、国後島と現在の標津町、羅臼町付近のアイヌ民族が和人71人を殺害した。この出来事は「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノッカマップ(根室市牧の内)で戦いに関わったアイヌ民族37人が和人によって処刑された。
 この墓碑は、殺害された和人71人の供養のために文化9年(1812年)に造られたもので、明治45年納沙布岬に近い珸瑤瑁の海中で発見されたという。現地で保存されていたが、昭和43年国後島を望むこの地に移設された。

【表面】(梵字)横死七十一人乃墓
【裏面】寛政元年巳酉夏五月此地凶悪蝦夷結集為賊事起呼不意士庶遇害者総七十一人也姓名記録別在官舎呼爾合葬建石
(寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。偶然居合わせた侍や漁民合計71人が殺された。その姓名の記録は役所にある。ここに合わせて供養しこの碑を建てる)
 墓碑表面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲ってきたとあるが、和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と史実は異なる。
 指定年月日 昭和42年7月25日
 管理者 根室市教育委員会
(転載終了)

 碑文を呼んで、歴史はいつも勝者が創るのだと、改めて感じる。
 岬をしばらく散策した後、帰りは定期バスに乗って根室市内に帰る。
 
 
   
  
  
   
 
 
  
 
    
 
 
 
 
    
 
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