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根室市内

 令和元年7月27日(土) 7.5km 1時間
 
 今日は、午後から焼き肉であり、午前中に少し走ることにする。根室市内で行っていない史跡を訪問した。

□ 開拓使根室出張所跡
 根室商工会議所の少し南側のスタンドの三叉路の一般の人家のところにそれはあった。根室市内は何度も走っているにも関わらず、初めて訪問である。開拓使のあの有名な判官松本十郎がこの地にいたと思うと感慨深い。
「明治2年、開拓使庁が東京に設けられ、函館と根室に出張所が開かれた。開拓使判官松本十郎が根室出張所開設のため、役人、移民など130人を率いて根室におもむき、牢屋・病院・教育所などをつくった。明治5年開拓使根室支庁と名を改め根室国の他に釧路国・千島国・北見国の一部を治めた。」

□ 小池仁郎碑
 大法寺と明治公園の間に銅像があるが、気になっていた。銅像は小池仁郎さんという方で、明治・大正時代の根室出身の国会議員だったのだ。この銅像は根室市開基百年を記念して昭和43年に建立されていたのだ。何と揮毫者は時の内閣総理大臣佐藤栄作である。裏の説明文は漢字とカタカナでよく読めず、申し訳ないのでウイキペディアから転載させていただく。
「越後国中頸城郡潟町村(現在の新潟県上越市)出身。小池太一郎の二男で、1877年(明治10年)に小池仁兵衛の養子となった。1879年(明治12年)に新潟師範学校速成科高田支場を卒業し、小学校教員となったが、北海道に渡って漁業に従事した。根室水産会会長、根室漁業組合理事、根室鮭鱒養殖水産組合長、北海道水産会会長、帝国水産会副会長を歴任した。1900年(明治33年)に根室町会議員に選ばれ、ついで1904年(明治37年)から北海道会議員を3期務めた。1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選回数を数えた。第2次若槻内閣では逓信政務次官を務めた。」
 
□ チャールズ・A・リンドバーグ(1902〜1974)
 次に訪問したのは、根室振興局と国の合同庁舎の間、根室警察署の近くの道路沿いにある。チャールズ・A・リンドバーグの説明文である。ここは職場に近すぎて、紹介が遅れていた。「シカゴとセントルイス間の郵便飛行士だったリンドバーグは、1927年ニューヨーク・パリ間の単独大西洋無着陸飛行に成功し、世界的に有名になりました。1931年、航空路調査のため、アン夫人を無線通訳士として同行し、北太平洋を横切り、落石無線電信局との交信の後、根室港に着水しました。リンドバーグが開拓した航空路は気象条件が悪く、当時は実現しませんでしたが、現在アメリカ東海岸・日本館の空路は彼が開拓した航路とほぼ同じコースをたどっています。科学が飛躍的に発達した現代にもリンドバーグの飛行士としての偉大な功績は脈々と息ずいています。」

□ アダム・ラクスマン(1766〜1803年頃)
 その向かいにアダム・ラクスマンの説明文があった。「ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマンは、1792年10月20日大黒屋光太夫ほか2名の日本人漂流民を伴って、根室港に入港しました。ラクスマンの来日の目的は、漂流民の返還の名のもとの通商外交でした。このラクスマンの来航は、以後の江戸幕府の外国に対する通交・通商政策・国防政策を方向づけた大変重要な出来事となっていきます。1792年10月に来航したラクスマン一行は、翌年6月15日までの八か月間を根室で過ごし、ロシア語、ロシアの地図などのロシア知識を日本に伝えました。」

□ 私立根室実修学校跡
 根室振興局の北側に「私立根室実修学校跡」があった。「明治28年、実業家山形勇三郎が北海道唯一の私立中学校として設立。本校は明治22年に創設の英語学習会を、同年開校した根室英語学校に吸収合併し、同28年に根室実修学校と改称して開設。同31年にこの地に校舎を新築、同35年に閉校したが、この間多くの人材を輩出した。」
 開拓使根室出張所跡
  
 
   
小池仁郎碑
   
   
 チャールズ・A・リンドバーグ
 
 
アダム・ラクスマン 
 
 
 私立根室実修学校跡
  
 
 
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