Toruトップ  >マラニック  >史跡 
標津町(標津町役場→標津神社→会津藩陣屋後→ホニコイチャシ跡→タブ山チャシ跡→望ヶ丘チャシ跡→ポー川史跡自然公園→カリカリウスチャシ跡)

令和元年9月1日(日) 20km 2時間34分

 本日は晴天予報なので、標津町まで遠征し、ランニングで標津町のチャシ跡などの史跡を巡ることに。9時頃標津町役場に車を停める。役場の前には巨木のハルニレがそそり立っている。昭和47年教育委員会の認定時で樹齢80年だから、現在は120年以上の樹齢だ。役場から国道を南下し、標津神社が見えてきた。
 標津神社は天明元年(1781年)創建で、石灯籠が天保13年(1842年)の寄進というから古い。
 標津神社を後にし、国道を南下し中標津町との交差点の南側には「会津藩陣屋跡」があるはずだが、見つけることができなかった。
 ホニコイチャシはホームセンターニコットの南側の海岸段丘上のところにあった。黄色い看板で「ホニコイチャシ」と書かれており、草も綺麗に刈られている。明確な濠が掘られており、チャシの周囲には竪穴がたくさんあった。
 ホニコイチャシ跡からさらに南下し、野付半島との交差点の近くにタブ山チャシ跡があった。ここは出張で何度も通り看板があったのを確認している。看板を読んだ後、小高い丘の上にチャシがあるはずだが、看板に熊頻出地域!と書いてあり、少しビビり、手をたたき声を出しながら、登山道的な道を上がっていくとすぐについた。
 丘の上に、コの字型の濠が4つ連結している構造とのことだが、濠などを草を刈ってありわかりやすく、南の端の濠までたどり着くことができた。しかも見晴らしが非常によく、標津の街から知床半島、国後島、そして野付半島を見渡せる。
 タブ山チャシを後にし、再び国道を北上して標津町の市街の望ヶ丘公園の一角にある「望ヶ丘チャシ跡」に向かう。公園内に入り高台に登っていき頂上に忠魂碑があった。ネットによるとそこがチャシ跡で、2000年頃には標柱もあったそうだが、今はもうない。ネット情報の通り南側の周囲はパークゴルフ場で、忠魂碑も周囲も何の変哲もない公園のようである。少し寂しさを覚えながら、向かおうとすると目新しい「桑田立斎アイヌ種痘乃碑」があった。江戸時代、通常の和人はアイヌ人を迫害していた中、天然痘に苦しんでいたアイヌ人を助けた和人もいたと思い、少し感動。
 公園を後にし、市街の街を北上していくと、「標津駅転車台」にたどり着いた。ここには5年ほど前に訪問しているが、当時とは違い、蒸気機関車も鎮座し、また説明板等も充実している。何より面白いのは、機関車を社殿にした小さい神社があったことだ。
 標津町の市街地を後にしてポー川自然史跡公園に向かい、標津川の橋を渡ると雲行きが怪しくなり土砂降りに。聞いていないよ!と思いながら、雨宿りができるバス待合所で雨宿り。20分ほど雨宿りをすると晴れてきた。
 ポー川の公園には、「伊茶仁教育所」や「糸櫛引駅逓」、「竪穴住居復復元」があり、そこを若干見学後、標津湿原の木道を通り「カリカリウス史跡」に走ることに。
 カリカリウス史跡まで遠いかも思ったが、湿原の中の快適な木道を走り、案外簡単に史蹟に到着。ここには約1800もの縄文時代から擦文時代の竪穴住居跡があるそうだ。そして、ここの一番の高台にはカリカリウスチャシ跡がある。森林で鬱蒼として少し気持ち悪いが走って散策することに。
 説明板のとおり、竪穴住居跡の穴がたくさん開いている。しばらく走り、高台に着くとひときわ大きな穴があり、周囲に濠が掘られている場所があった。またそこは見晴らしがよい場所である。説明板がないが、後でセンターの人に聞いたら、そこがカリカリウスチャシ跡だという。そこの史跡は3000もの住居があり当時は大集落だったそうだが、ポー川という川からサケなどの魚介類が採れ、山が裏側にありシカなどの獣も獲れ、さらに冬でも凍結しない湧水があり、しかもそこから知床半島や国後、標津方面も一望できる立地だったことから、栄えたのだろうとセンターの職員から説明があった。熊の恐怖も忘れ、遺跡内を十分散策したあと、標津町内に戻った。


【標津神社】
  天明元年(1781年)漁業の安全と大漁を祈願する漁業請負人及び漁師ににより創建されたものと伝えられ根室管内でも古い神社の一つ。文化1年(1805年)7月に社殿及び拝殿を回収し、天保11年(1840年)9月に場所請負人藤野喜兵衛が本殿拝殿を改修造営。天保13年(1842年)吉田喜右衛門、舘村順衛漁師が花崗岩石灯籠一対を寄進。当管内で最も古い石灯籠。

【ホニコイチャシ跡】
・所在地:標津町字標津1-20
・方 式:面崖式
・主な遺構:空堀、コの字状1条
・マップコード:448 827 486*63
 ホニコイチャシはホームセンターニコットの南側の海岸段丘上のところにあった。黄色い看板で「ホニコイチャシ」と書かれており、草も綺麗に刈られている。明確な濠が掘られており、チャシの周囲には竪穴がたくさんあった。

【タブ山チャシ跡】
・ 所在地:標津町字茶志骨
・方 式:面崖式
・主な遺構:コの字状の濠が連結
・マップコード:448 800 124*34
・説明看板
 チャシ跡は1789年に起きたクナシリ・メナシの戦い以前のアイヌ社会で利用された遺跡で、祈りの場、監視場、戦闘時の砦などその機能については諸説が唱えられています。チャシ跡の多くはコタンあら見返すことのできる場所にあり、当時のアイヌ社会の心の拠り所として重要な存在でした。タブ山チャシ跡はコの字形の溝で区画された4基の濠が連なる多郭連結型のチャシ跡で、周囲の景観を含め良好な保存状態を保っています。かつて同一の文化圏を形成したクナシリ・メナシの地を一望できる場所にあり、またチャシにまつわる伝承も残された貴重な資産です。

【望ヶ丘チャシ跡】
・ 所在地:標津町字標津
・方 式:孤島式(丘頂式)
・主な遺構:円形周濠1条
・マップコード:448 826 704*81

【桑田立斎アイヌ種痘乃碑】
 安政4年(1857年)新暦9月11日江戸深川の蘭学医桑田立斎は折から220日の暴風雨の危機を乗り越え国後から野付に渡り通詞加賀伝蔵の補佐で標津一帯で種痘を行った
 この種痘はアイヌの天然痘参加を憂いたはこだて奉行村垣範正らの要請で幕命により行われ、立斎は門人の西村文石、秋山玄潭、井上元長とともに北上し、広く巡回して1万3千人余のアイヌの生命を救った。ジェンナー種痘200年に当たり一門の仁愛済生の偉業を称える  平成10年孟冬 標津町 桑田立斎先生顕彰会

【標津駅転車台】
 標津線は根室原野開拓の大動脈として、昭和4年に鉄道の敷設が、昭和6年に釧網線と根室線とをつなぐ路線が決定して工事が着工されました。昭和9年に厚床―中標津間、昭和11年に標茶―計根別間、昭和12年に計根別―標津間が完成し、全線が開通しました。
 標津線は根室原野への開拓物資、開拓地から生産物の輸送という重要な役割を果たしてきましたが、道路網の整備と自動車の普及によって貨物量、乗客が減少して平成元年に廃止されました。
 転車台は始発駅に設置された施設で、台の上に機関車を乗せて方向を転換するのに使われました。根室原野開拓に活躍した標津線、標津駅の52年間の歴史を物語る施設です。

【伊茶仁教育所】
 この街の学校は明治10年初代戸長槙宗説が自宅での寺子屋教育が始まりであります。この学校は明治23年私塾として開かれ、大正8年に廃校となった「伊茶仁教育所」の名称が使われていました。この施設は、この地方の原野開拓が盛んになった大正元年頃に建てられた校舎を再現したものです。

「糸櫛引駅逓所の石碑」
 駅逓は、旅行者の宿泊、移動の際の乗馬、荷物運搬のための馬や人足を提供した官設の施設で、道路網や輸送機関の未発達な北海道において開拓に大きな役割を果たしました。
 糸櫛別駅逓所は、標津から根北峠を越えて斜里に通ずる道沿いの駅逓の一つで、標津から四里六町(16.7km)の位置に明治29年に設置されました。駅逓の取扱人は谷村瀧乃進で定雄、正義と親子三代に引き継がれ、昭和20年頃に廃止となりました。その後、昭和38年頃まで旅館として経営が続けられました。
 石碑は、明治29年に駅逓の井戸を掘った時に出た大石に瀧乃進命名の駅逓名を彫ったもので、平成10年10月に瀧乃進の曾孫に当たる谷村武夫氏から標津町に寄贈されたものです。

【伊茶仁カリカリウス遺跡】
 遺跡はポー川左岸の標高8〜20mの台地状と標高3〜3mの自然堤防上に分布する。縄文時代から擦文時代の集落跡を中心としています。冷涼な気候の作用で土の堆積が遅く、アラスカやシベリアなどの遺跡と共通した竪穴住居跡が窪みとして残る独特の遺跡景観をしているのが特徴です。
 地表から数えられた竪穴住居跡は2567あり、円形、楕円形をした縄文から続縄文時代のものが約1800、方形、長方形をした擦文時代のものが約770あります。こうした竪穴住居跡が台地に12か所、自然堤防に5か所に分布する遺跡群です。
 また、アイヌ文化のチャシ跡も2か所あり、約7000年前から約300年前まで長期に人々の営みが続けられてき北海道最大級の遺跡です。
 北海道東部の擦文時代は本州から影響を受けた土着の擦文文化と沿海州方面から渡来したオホーツク文化の伝統を受け継ぐトビニタイ文化が混在しています。カリカリウス遺跡には約770の擦文時代の竪穴住居跡がありますが、大小の集落跡の中に8カ所のトビニタイ文化と考えられる集落跡が認められます。二つの文化は10世紀ことにから徐々に融合して13世紀初めにはアイヌ文化へ受け継がれています。
 擦文時代の竪穴住居跡分の様子を復元住居の一群で見てみます。竪穴住居跡は方形でかまどや入口の痕跡のある擦文文化のものと長方形の擦文文化、そして方形(五角形)で石囲い炉が認められるトビニタイ文化のもおのに分けれられます。
 トビニタイ文化の方形の竪穴住居跡は台地の前面に分布し、擦文文化の方形の竪穴住居跡は台地の奥側、そして長方形の竪穴住居跡は北側の谷に面して点々と分布しています。住居が条件の良いところから選地されたとすれば、トビニタイ文化、方形の擦文文化、長方形の擦文文化の順に竪穴住居群が形成されたと考えれます。また、台地の縁にトビニタイ文化の墓が集中して墓域が形成されています。

【カリカリウスチャシ跡】

・ 所在地:標津町字川北
・方 式:面崖式
・主な遺構:空堀、コの字状1条
・マップコード:658 357 180*26
・カリカリウスチャシ跡は、南北33m、東西22mの規模で、北・西・南の三方を濠で区切っています。西側は竪穴住居跡を掘り上げた土が高い部分に濠が掘られ部分的に二重になっています。主体部は緩やかな緩斜面で二か所の段を設けて、ひな段状に造られています。南西の角は濠が途切れて入り口の可能性があります。 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
マラニックに戻る