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令和元年9月8日(日)

標茶町
・塘路駅〜ザルボ展望台〜サルルン展望台〜標茶町郷土資料館等 7.7q 1h27m
・茅沼駅〜シラルトロ自然情報館〜チョウの森(往復) 5.1km 43分

 標茶町の湿原を走ってみることにする。
 最初は、塘路駅に車を停めて茅沼駅を目指すことにしたが、とりあえずはザルボ展望台を目指すことに。
 塘路駅を出発して、塘路市街に明治39年創立の「塘路教育所跡」を見つけた。その隣には「ウライヤ遺跡越善地点」があった。標茶には史跡の説明板がたくさん残っている。その後、国道を北上しザルボ展望台に向かう。1.5kmほど進むと登山道みたいな道を登り500m進むとザルボ展望台に着いた。しかし、止まっていると蚊がまとわりつき大変なので、サルルン展望台にすぐ向かう。すぐに展望の良い土盛り、おそらくチャシ跡らしきところに着いた。埋蔵文化財の包蔵地の看板があるので、間違いないだろう。後ほど標茶町郷土資料館でわかったが、ここはポンピラチャシ跡だと推定する。
 ここも蚊でひどいので早々でサルルン展望台に向かう。約500mほどで到着。ここからは塘路湖や湿原の展望が広がった。展望台には風が通っており蚊もいないのでしばらく佇んで国道に戻り、来た道を戻って、標茶町郷土資料館やエコミュージアムセンターなどがある元町地区に向かう。
 元町地区に入り、湖沿いの散策路を走ると「マサコヤノシマ遺跡」にたどり着いた。この辺はコタンがあった場所で遺跡が多く残っている。
 その後、エコミュージアムセンターに寄った後、向かいの標茶町博物館などに向かう。まず、目に入ってきたのが「標茶町発祥の地」碑である。裏には「明治18年7月1日川上郡熊牛村外4か村戸長役場がこの地に置かれ、初代戸長田沢熊作が此処に於て執務を開始した。昭和50年11月建立 標茶町」と書いてあった。標茶町の市街地は今の中心街ではなく、この地だったのだと認識。
 その次に、標茶町博物館「ニタイ・ト」に入館する。210円である。建物が新しく、内部は標茶町の自然と歴史が展示されている。特に印象に残ったのが、地元の昆虫学者「飯島一雄」氏の昆虫の標本である。氏は新種の昆虫を何種も発見した素晴らしい人。自分もこのような遺産を残したいと思う。歴史の分野では、この塘路湖周辺にチャシ跡が点在していることがわかった。
 
 塘路駅に戻っても7.7kmしかなく、一寸距離が足りないので、茅沼駅に移動して、チョウの森方面まで走ってみることに。茅沼駅の南側にはシラルトロ第1チャシ跡とシラルトロ第2チャシが線路の脇にあるはずだが、確認できない。いずれにしても立ち入り禁止だから仕方ない。
 舗装道路を半島を南下し、1km程度進むと今は閉館している茅沼温泉の横と、シラルトロ自然情報館を通ってチョウの森を散策する。鬱蒼とした森の中の散策路だが、ヒグマはいないようだ。半島の突端に展望台があり、登ることにするが、蚊がうるさいので早々に退散し戻る。シラルトロ情報館とその周辺のパークゴルフ場近辺は、竪穴住居群があったところで、パークゴルフ場の窪地は竪穴住居の跡だそうだ。
 茅沼駅に戻り、標茶町の富士温泉に入った後、根室に帰る。

【塘路教育所跡】
 塘路教育所は明治39年4月に公立塘路簡易教育所として創立され、同41年の名称変更に伴い「公立塘路教育所」となりました。学校はこの付近に置かれ大正14年釧網線敷設工事のために移転するまで使われました。なお開校当時は管理する熊牛村(標茶町の前身)の財政が疲弊していたため、塘路地域住民の多大な寄付により学校設備が整えられていきました。

【ウライヤ遺跡越善地点】
 塘路地域は遺跡が非常に多く見つかっている地域です。特に塘路湖周辺と湖より注ぐアレキナイ川、釧路川周辺では集中して発見されています。
 ウライヤ遺跡越善地点も塘路湖河口付近に位置する段丘上にあります。この遺跡は平成17年〜22年にかけ、塘路地区下水処理場建設や移動通信施設設置にともない、発掘調査が行われました。
 発掘調査では、縄文早期〜晩期、続縄文、擦文時代と幅広い時代の住居跡や土坑、墓壙、竪穴遺構が発見されました。多くの土器、石器が見つかり、中国北宋時代の銅銭も発見されています。

【マサコヤノシマ遺跡】
 マサコヤノシマ遺跡は、塘路湖南西岸の岬状に張り出した台地に所在する遺跡です。
 昭和40年頃こおの付近で行われた水道工事の際に、多くの遺物が発見され遺跡であることが確認されました。そして昭和43年に釧路市立郷土博物館の澤四郎氏が調査担当者となり、標茶町教育委員会により発掘調査が行われました。その結果縄文時代中期〜晩期お土器片と近代に由来する柱穴が確認され、特に釧路地方で出土例の乏しかった縄文時代後期の遺跡が出土したことで注目されました。
 平成23〜24年度にかけて、標茶町郷土館により詳細分布調査が行われ、縄文時代後期のほぼ完形の土器を始め、アイヌ時代と近代に由来する柱穴が数多く確認されています。

【旧塘路駅逓】
 明治21年(1888年)北海道庁は、人馬継立営業規則を定めた。交通の発達しておらない当時の旅行者は、徒歩又は馬を利用しての荷物の運搬などでその目的を果たしていた。その頃、釧路・標茶間を往来するためには約3日間を要するためどうしていも途中1泊の宿を必要とした。その中継機関としての業務を行ってきたのが駅逓であった。
 塘路駅逓が設置されたのは明治23円(1890年)6月で、人馬の中継ぎ、荷物の運搬など旅行する人の便を図るほか郵便物の継替えも行った。本駅逓も釧路網走間の鉄道の開始によって昭和3年(1928年)に38年の長きに亘る業務を廃止した。その後、町が歴史的にも重要な役割を果たしてきたこと、独特な建築方法であることが文化財に値するとして昭和48年12月に移転復元したものである。
 本家屋は明治18年(1885年)故越善啓作が建てたものである。その変わった建築様式を一般に公開するためもあって復元も一部にとどめて詳細は図面にして屋内に掲示してある。標茶町

【北海道集治監釧路分監本館】
 昭和44年12月、北海道立標茶農業高等学校敷地内に敷設されていた北海道集治監釧路分監本館を標茶町発祥の地である当地に移築復元し、昭和45年6月に郷土の開拓資料や動植物等の標本展示を目的に標茶町郷土館として開館した。「集治監は徒流刑に処せられたものを拘禁する所とす」とあって明治初期のころ国事犯などの囚徒が激増しその収監に頭を悩ませていた政府は「該囚として遠地に発遣すべし、その地たるや北海道に於いて外になし役限満ちて郷土に還るを廃し永住の産に就かしむべし」として明治18年9月太政官達五拾二号を以て標茶町に釧路集治監(後の「北海道集治監釧路分監本館」)を設置し、本施設は庁舎として明治19年に建設された。明治34年7月の廃止に至るまで約16年間に収監された囚人(約18,552名)にとっては言語に絶する過酷な労働を強いられたことは、多くの文献に残されている処である。
 廃止後の施設は軍馬育成のため軍馬補充部川上支部として陸軍省の所属となり、多くの軍馬を飼育し終戦までその業務に当たった。戦後まもなく北海道庁標茶農業学校(後の標茶農業高等学校、現北海道標茶高等学校)設置によって、昭和21年より同32年まで学校庁舎として使用されたが、新校舎落成によって長い歴史の幕を閉じた。町としては「貴重な文化財」として永久に保存するため復元したものである。移築後、標茶町郷土館として平成20年8月まで使用された。標茶町

【茅沼遺跡群】
 茅沼地区一帯は、埋蔵文化財包蔵地が数多く確認されており、埋まり切らず残された竪穴住居跡などが見つかっています。
 特に蝶の森を含む温泉施設周辺は、縄文時代中期(4000〜3000年前)と考えられる竪穴住居跡群となっています。森の中に点在する竪穴住居跡は、現在までに69か所確認されており、5カ所の遺跡に細分されています。これらの遺跡は未発掘で、竪穴住居跡を観察するのであれば、冬季間が最も適しています。雪原に窪んだ住居跡をはっきりと確認することができるでしょう。
 その他近隣にあるJR茅沼駅近くには、縄文時代と擦文時代の竪穴住居跡が混在する「茅沼竪穴群」などもあり、これらを総称して茅沼遺跡群と呼ばれています。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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