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陸別町(道の駅〜銀河の森〜ユクエピラチャシ跡〜道の駅)

 令和元年9月14日(土) 14.7km 2時間8分
 
 連休の初日、本別を訪問する前に陸別で走ることにする。今日の最終目的地は、ユクエピラチャシ跡。道の駅に車を停めて走り始める。ここはふるさと銀河線だったところだが、当時走っていたものだろうか、列車を走らせている。銀河鉄道999のペイントなどがある。
 いきなりユクエピラチャシ跡に行っても近すぎなので、陸別神社にお参り後、銀河の森の林道を走ることにする。上足寄に行く道を引き返し、銀河の森に入っていく。サーキットを過ぎて登りをどんどん登り、天文台へ行く道に左折する。天文台は今日は閉館で入ることができなかった。天文台のところからショートカットする道を行くが、車も通らず、熊が少し怖かったが、無事に川沿いの町道に出た。
 ここから国道に出て足寄方面に向かいすぐに右折して、ユクエピラチャシ跡の下の方に着くが、説明板を見て町道の上の方から行けると思い、町道を走るが、熊注意の看板もあり、鬱蒼としているので引き返して、チャシ跡の下から登っていく。
 草原から階段を登るとユクエピラチャシ跡がすぐに分かった。
 一番右側の土盛りに関寛斎の碑があり、その奥に二つ明確な濠と土盛りがあった。ここには、白い火山灰があると確認できなかったが、後ほど車で町道から回って確認したら見つけることができた。
 最後に道の駅に戻ると、朝の連ドラ「なつぞら」で使用された木のサイロが展示されていた。そして、この陸別の地は、関寛斎によって開拓されたものだ。この人は維新の時に蘭医として大活躍し、72歳の高齢で陸別の開拓に携わったすごいひとである。道の駅に資料館があり300円の入館料であったが、結構楽しめることができた。

【パンフレットから転載】
 史跡ユクエピラチャシ跡は、今からおよそ450年前に造られた道内でも最大級のチャシ跡で、昭和62年9月8日に国の史跡に指定されました。
 このチャシの最大の特徴は、濠の外側の大規模な土盛りにあります。この盛土は、濠を掘り上げた際に出る白い火山灰とロームを丁寧に重ね、表面を白い火山灰で覆った大変美しいものだったことが確認されています。また、遺跡名の「ユク・エ・ピラ」とは、アイヌの人々の言葉で、「シカ・食べる・崖」という意味を持ちます。
 遺跡は三つの郭が連結した複雑な形態をしており、その規模は盛土も含め長軸128m、短軸約48mです。
 ユクエピラチャシ跡は、その大きさと築造の計画性から当時、この地に有力な指導者が存在していたと推測されます。また、別名「カネランチャシ」とも呼ばれており、、その由来は陸別に伝わる英傑「カネラン」によるものと考えられています。

【関寛斎について(資料館パンフより)】
 文政13年、上総の国山辺郡中村(千葉県東金市)吉井佐兵衛の長男として生まれる。儒者関俊輔の養子となり、佐倉の佐藤泰然の門下に入り医学を修養する。銚子で開業したが、浜口悟(きへん)陵の勧めにより長崎のポンぺのもとで西洋医学を習得する。その後徳島藩ろり招かれて侍医となるあっが、戊辰の役では奥羽出張病院頭取とし活躍、徳島医学校の創設などに力を注ぐ。一時海軍病院に務め、山梨県立病院第2代院長としてl業績を上げるが、徳島に帰ってからは禄籍ともに奉還し東御殿跡(徳島町1丁目現在の城東高等学校)で開業して地域医療に尽くし、関医院にいたる道は徳島人から関の小路と称されていた。関夫妻金婚の祝賀を受けた後に日本の産業発展のために必要な地と注目されていた北海道の開拓を志した。その時すでに年齢70歳。四男又一は札幌農学校に在学。石狩樽川農場を開拓使、さらに奥地である十勝国斗満の地に入植したのは明治35年72歳の高齢である。開拓の方針を二宮尊徳が経営する二宮農場の自作農育成に求め積善社を結社した。また徳富蘆花との交友を深め、トルストイの思想に共鳴と理想的農村建設をめざしたが、子余作、又一に志を託して自ら命を絶つ。82歳の秋だった。 

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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