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厚岸町太田地区(門静〜太田宏陽〜太田〜道道14号線)

 令和元年10月27日(日) 17.7km 2時間20分
 
 厚岸町太田地区は現在酪農地帯であるが、明治時代に最後の屯田兵として開拓されたところであり、一度は走ってみたいと思っていた。国道44号線沿いの門静近くの駐車場に車を停めて、門静方面の町道から走り始める。川沿いの道を走っていくと、川にハクチョウがたむろしていた。その後、坂道を登っていくと、太田の広大な酪農地帯に着いた。
 しばらく走ると、「太田屯田兵屋」の看板が見え、400mほど走ると着いた。

【太田屯田兵屋】北海道有形文化財 昭和49年2月28日指定
 太田屯田兵屋は、明治23年(1890)に北方警備と北海道の開拓を目的として、本州から太田に入植した屯田兵440戸が暮らす住宅として、明治22年1月翌年5月にかけて標茶町集治監の囚人たちによって建てられました。
 屯田兵に支給された兵屋は17.5坪(約58u)の木造平屋建で、土間及び6畳と4畳半の2部屋、居間、台所、押入れ、便所からなっていて、居間には炉が設けられ、屋根に煙り出し(排気口)がつけられています。
 明治37年(1904年)の屯田兵制度廃止後も住宅として使用されていましたが、昭和46年に解体復元され、同年所有者の松本英男氏により町に寄贈されました。
 この兵屋は、向かい合う建物の構造が道路を挟んで対象になる「裏返し型」と呼ばれる建て方で、その例の少なさと当時と同じ位置に建っていることから貴重な文化財となっています。
                                         厚岸町教育委員会

 太田屯田兵屋から北上すると、古い標柱で「太田屯田兵事業所跡」があり、そのあとすぐに太田の市街地についた。小学校やパークゴルフ場、そして開拓記念碑が建っていて、しばらく走ると厚岸町太田屯田開拓記念館に着いた。入館料110円、先日の増税で10円アップしたという。
きちんと窓口におばさんがいて対応してくれる。しかし、入館したのは自分が3日振りくらいのようだ。
 館内には、屯田兵村当時の文献や写真、衣装などが陳列されている。中でも、印象的だったのは、「太田」の地名の由来が、この地が早くから屯田兵村設置の請願がされていたが、この附近の地理に詳しい太田紋助(1846〜1892)の尽力によるところが大きく、彼の功績を讃えて、地名を太田としたそうだ。
 また、当時18歳で屯田兵として入植した西野喜太郎の日記「西野家行のう帳」が展示されていた。やたらと長くこれまた印象的だった。
 記念館を後にして、国道44号線にまた向かう。途中に開拓当初に取り組んだ養蚕の名残り、桑林を過ぎると、厚岸太田のお寺「報国寺」に着いた。ここにはアカマツがそそり立っているが、明治23年に屯田兵が入植した際、当時第3中隊長であった岩淵繁隆氏が故郷の風物によって隊員を励ましたいと間あえて、出身地の青森からアカマツの種を取り寄せて、このお寺に植栽させたものだそうが。北海道では道南の一部にしか生えていないアカマツがこの地で100年を超えて育っているのはすごいことだ。
 その次に、お寺の裏側にある神社を訪問しようとしたが、林道を結構走らなければならなかった。そして、森の中にその豊受神社が鎮座していた。由来は北海道神社本庁から次のとおり引用。
【ご由緒】
 明治23年6月屯田兵2個中隊440戸(2300余人)が移住したが、新開地のため崇敬すべき神社もなく、当時の中隊長門田見陳秀・岩渕繁隆の両名及び村内有志らが発起人となり、明治24年7月遥拝所を建設し、太田屯田兵村民の氏神として豊受大神を勧請した。明治26年社号公称許可、無格社豊受神社となる。

 その後、道道と国道44号線を走り車に戻る。
   
   
   
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
  
   
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