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野付半島(野付ネイチャーセンター〜竜神岬〜アラハマワンド往復)

 令和元年11月16日(土) 10頃出発 17.9km 2時間25分
 
 職場の三人と野付半島を走ることに。当初は車2台で行き、野付半島の付け根から突端まで走る予定だったが、風も強く、思ったよりも遠いので、ネイチャーセンターに車を止めて、突端まで走って往復することに。
 西風がやたらと強く難儀するが、せっかくなので走ることに。走り始めて舗装道路はすぐに終了。砂利道を果てしなく進むと竜神岬を過ぎ、番屋を何か所かすぎると道がなくなる。果てしなく砂浜を進むとアラハマウンドに到着した。ここの対岸から尾岱沼集落がまじかに見える。当初の目的地として野付通行屋跡、幻の集落「キラク」をめざしたが、見つからない。スマホで確認すると、アラハマワンドの北側の海の向こうの砂嘴だった。
 あきらめて、ネイチャーセンターに戻ることにする。帰りは追い風で面白いように進んだ。
 野付通行屋についてネイチャーセンターの人に聞くと、車では行くことができず、沼地も通りるので長靴は必須だという。また、季節的には夏は草、冬は雪で隠れるので、春か秋でないと遺跡はわからないという。さらに、墓石程度しかないので、到達したとしても拍子抜けするという。しかし、史跡マニアの自分としては、再訪を決意して、道をあとにした。
 なお、ネイチャーセンターの石碑の説明を転載する。

 野付半島は、元禄年間に開設されたキイタップ(霧多布)場所に含まれ、松前藩政下の天明年間には子モロ(根室)場所のニシン漁場の一つとして開けた。寛政11年(1799)年に駅家が置かれ、国後島への渡海の拠点となる。松浦武四郎の「知床日誌」によれば、藤野喜兵衛の漁場支配人加賀屋伝蔵が安政5年(1858年)には、すでにこの半島のヲンネ二クル(現オン二クリ)に雑穀、野菜類27品を植種、本町「農業発祥の地」でもある。
 昭和37年12月に「野付風連道立自然公園」に指定され、その雄大な自然、豊富な植物他に類のない鳥類の飛来は人々の感動するところとなり、全国に脚光をあびることとなった。
 突端部の近くには、幕末の墓石が草むらの中に残され、その一基は「嘉永二酉五月二十八日箱館芝田秀三郎墓」と読め、長く語り伝えられている、幻の集落「キラク」の名残をとどめる。
 この半島を中心としたサケ漁などの沿岸漁業は、めざましい発展をとげ、昭和60年には16723トンを水揚げ、66億6237万円を取り扱うまでになった。
 日本の固有の領土たる国後島は、ここからわずか16qの位置にある。今は、異郷の島が指呼の対岸に望めるのも野付半島ならではのこおと。尾岱沼の開基100年に当たり、野付半島の由来と歴史の一端を後世に伝えるため、ここに本碑を建立する。
     昭和61年11月3日 「野付半島」の碑、建立期成会
 

 
   
 
 
 
 
 
 
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