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中標津町(330アリーナ〜緑が丘公園〜開陽地区手前〜俣落〜道道833号線〜330アリーナ)

 令和2年3月21日(土)22.8km 2時間55分

 中標津町内で訪問したことがない緑が丘公園のルートと、俣落地区に走って訪問することした。
 いつも通り330アリーナを出発し、北根室ランチウエイのコースを行き、途中から緑ヶ丘公園内を走る。残雪と青空が綺麗だ。最初の目的地、郷土館緑ヶ丘分館は雪に閉ざされており訪問はあきらめ、さらに進むと車は交通止めで道路も雪に閉ざされている。しかし、ここで引き返したくないので、雪の道を走っていくことにする。しばらくすると中標津空港の通りに到着した。
 ここからはいつもの練習コースを北上し、横内林業を過ぎ約1kmほど北上してRARAファーム手前で左折する。ここから西に進むのだが、向かい風がきつい。しかし、武佐岳や斜里岳、標津岳等の山並み、そして、牧草地と雪のパッチワークが綺麗だ。
 5kmほど進み左折して少し南下すると俣落地区に到着した。俣落の由来は、アイヌ語で「マタオッイ」で「冬ごちゃごちゃいるもの」という意味だそうだ。具体的には、この辺にメム(泉)が3か所あって、鮭が滞留することが多かった」意味だという。
 交差点から高台にいくと閉校した俣落小中学校、その向かいに俣落拓北神社があった。しかし、鳥居はあるが社がないので変だと思っていると、集会所と一体となっていた。集会所の横には「俣落開拓の碑」が立っていた。以下転載する。

【転載はじめ】
 碑文
 大正6年(1917)に、滝ケ平繁三郎 田代良吉 沖津次右衛門 川尻藤太 鷲見作造の5氏が俣落川流域の未開の地に最初の鍬を入れてからすでに60年 思えば開拓のはじめ皇大神宮を祭り仏の説教所を開き私設教育所を設けて 永住の志をかためましたが大正末期からの昭和初期に遭遇した冷害凶作は筆舌につくしがたい苦難の連続でありました
 そうした中で昭和5年頃より有畜農業に意欲を燃やし以来戦中戦後を通じて多くの努力により現在の酪農郷の実現を見たものであります
 このたび開基60周年を迎えるにあたり幾多の先人の労苦と功績をたたえるとともに輝かしい未来に向かって更に発展することを祈念しこの碑を建立するものであります
 昭和52年(1977)9月15日  俣落開基60周年記念協賛会
【転載終了】

 ここにも開拓の歴史を感じ、満足しながら中標津の市街地に戻った。
  
 
 
 
   
   
   
 
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