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白老町(虎杖浜駅〜虎杖浜神社・野口屋又蔵功績碑〜アヨロ鼻灯台(カムイエカシチャシ)往復

 令和2年5月31日(日)10.4km 1時間34分

 絶好の快晴天気予報に誘われ、吉方の南方である白老町の虎杖浜にランニング・史跡巡りに向かう。今日の目的地は、アヨロ鼻灯台=「カムイエカシチャシ」である。
 虎杖浜駅に車を停めて走り始める。国道ではなく海側の道を登り別方面に向かう。結構海産物屋があり驚く。3kmほどで真っすぐな道が終了し、小高い丘の上に神社が見えてきた。ここは第一目的地の虎杖浜神社である。神社の横には野口屋又蔵功績碑があった。

【転載はじめ】
 野口屋又蔵は、屋号(マルマタ)と称し、4代130年余年にわたり、白老の発展に多大な功績を残した人たちである。
 初代又蔵は、陸奥国大畑(青森県)の出身、天明4年(1784)に単身渡航し、同7年シラオイに出稼ぎした。2代又蔵は所在の実弟で、寛政年間(1789〜1800)松前の豪商栖原屋(すはらや)に勤め、文政10年(1827)シラオイ場所請負人となった。また弘化元年〜4年(1844〜47)には、北海道で初めて昆布養殖のため投石事業を行い、喜寿で世を去った。
 3代又蔵も事業を引き継ぎ、安政2年(1855)シラオイが仙台藩の警備地になるや、元陣屋の構築をはじめ、漁業など諸産業の振興に尽力したが、明治維新には同藩と去就を共にした。4代又蔵は函館より白老に移住し、漁場持から郵便局長(明治5〜27年)、戸長(同13〜14年)、白老村総代人(同30〜38年)と要職を歴任し、草創期の村制に大きな足跡を残した。
 これらを讃え、大正4年(1915)白老・幌別(登別)、勇払(苫小牧)有志により、虎杖浜神社境内に功績碑が建設された。また4代目次男貞八は大正8年初代村会議員として活躍した。
【転載終了】

 虎杖浜神社の道路の向かいの高台にも碑があり、訪問してみると不動明王みたいなものだった。神社を後にし、アヨロ鼻灯台に向かうが、途中の水産会社で聞くと海岸から行けると聞いて海岸を走ると、砂浜で遊んでいる人に聞くと行けないという。また引き返し、先ほど参拝した神社の高台を見ると標柱が立っている。これはもしや遺跡かと思い、神社の高台にまた登り、奥の突端に行くと、「アヨロ遺跡」という碑が立っていた。ここも眺めがよく、チャシではないかと思ったが、ネット上ではそのような情報がなかった。。
 また先ほどの道を登別の方に向かい、坂を上り下ったところにアヨロ海岸の入り口があった。その入り口から1kmほど走ると左手にポンアヨロ観音堂があり、すの少し先の高台に灯台が見えてきた。そして、その灯台の登る途中に「カムイエカシチャシ」の標柱があった。急坂を上り切ると灯台があり、絶景が広がっていた。西の方を見ると駒ヶ岳をはじめとする渡島半島、東の方に日高山脈も見えていた。陸の方を振り向くと、登別温泉の外輪山の山々である。かつてアイヌの人々は、ここで祈り、見張りをしていただろうと推察してしばらくたたずむ。

 http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/siro/chasi/html/kamuiekasi.htm へのリンク

 家系城郭研究所さんによると、ここは灯台が立つ前に一部発掘調査が行われているそうで、半円形の一条の濠があり、その長さは100m、幅は狭いところで5m、狭いところで3m、深さは2m前後、掘り上げた土は濠の外側に土塁上に積まれていた。濠に堆積した火山灰の年代から寛文3年(1663)年の有珠山噴火以前に建てられたそうだ。
 なお宇田川弘著の「アイヌ伝承と砦」には、以下のようにこのチャシを紹介しているので、転載する。

【転載はじめ】
 このポンアヨロという村は昔先祖が和人と戦いをする前に見張るところとしてやぐらを作ったのではないかと思うのです。(栃木政吉氏祈詩)
 オソコロチの崖の上にある砦址。カムイエカシはポンアヨロのにもとあった部族の先祖のえらい翁で、この人に付いては様々な伝説が伝えられている。ある時釧路方面の人々が日本へ船で交易に行った帰りみち、船中で疱瘡にかかった者があったのに、それを秘してポンアヨロの港に立ち寄り、宴会をするからと言って膳椀を借りてそれにこっそり疱瘡の膿をこくりつけて何食わぬ顔で立ち去った。そのため部落の人々は片っ端から疱瘡にかかって死んでいき、最後にはカムイエカシまでもその病気にかかり立つことができなかった。そこで彼は座ったまま小便をした。それまでは女も男も立って小便する習いだったのを、その時以女は「カムイエカシに恐れ多いから」と言ってかがんでするようになったという。知里真知保。
【転載終了】

 このチャシの川の対岸にも丘があり、チャシなどの遺跡があるかと思うが、踏み跡がないので断念する。後ほど出てくるが、この上はカムミンタル、神の遊ぶ庭と言われる聖地だったそうだ。今度行ってみよう。個人的に思うに、ここは狩猟採集民族にとって、海も川もあり、背後には山があり、食料を調達するに好都合のところであり、さらに渡島半島や日高方面を展望できる軍略的にも重要な地だったと推察できる。

 その後車のところまで走って戻り、アヨロ温泉に入ると、アヨロ温泉のアヨロ語源が書かれていたのでこれまた転載する。今日行った地はアヨロの語源だったのだ。

【転載はじめ】
 現在の地名 北海道白老郡白老町字虎杖浜
 虎杖浜と命名される前はこの付近一帯はすべてアヨロと呼ばれていました。
 アヨロとは昔アヨロ川の川口付近にあった部落のことでアイ・オロオコタンと呼ばれていました。アイとは弓矢、オロオは群生する。コタンは部落のことで、アイオロが自然に略されてアヨロと呼ばれるようにになりました。
 昭和50年前半に灯台が建設され地元の漁協では虎杖浜灯台という名称を強く要望しましたが、世界中で使用されている海図に、この崎はアヨロ鼻となっているので名称の変更ができないため、アヨロ鼻灯台と命名されました。現在この灯台及び、川とJRの鉄橋並びにこのアヨロ温泉旅館が地名(アヨロ)を残していることになります。
 アイヌの人たちは文字をもたなかったので記録はありませんが、相当古くからこの地名はあったと思われます。徳川の江戸幕府は元禄10年に日本中の三百諸侯の大名全員に自分の領地の地図を書いて差し出すよう命じました。蝦夷地の領主であった松前嶋絵図三枚と郷帳二冊を元禄13年正月(西暦1700年)に幕府に提出しました。しかしこの絵図は正保元年(西暦1644年)に幕府に呈上したものを手直しものと言われています。
 その郷帳の中の呼名アヨロですが、意外と範囲は広く、現在の虎杖浜の大部分と中登別も全部アヨロのなかにあります。
 今から270年以前の享保年間(1716〜1726)までは、多くのアイヌの人たちが住んでいましたが室蘭方面及び白老方面の両平地の山間部であったので両方面の人たちの争いが起きるとしばしば戦場となり、そのために自然四散し人口が少なくなったと言われています。
 チャシコツ」(砦)の跡も多く、石鏃の一つつまり矢尻の出るところといいます。
 もう一説にはここはポンアヨロ川口西側(登別側)の丘に2ヘクタール(二町歩)程の平坦な広場があり、ここをカムイミンタルと言い、ここだけは草が一面に生えていて立木は一本もない、カムイミンタルとは神の庭ということで、月夜の」板に神々が降りてきて舞い遊ぶとい言われ古代の祭の場であったと言われています。
 当時旅行したアイヌの人達は、この神に敬意を表し空に向かって必ず矢を放して通ったと言われています。
 郷土史研究家 田寅雄氏解説抜粋 上村和牛 敬書
【転載終了】
   
  
   
 
  
   
   
   
  
   
   
   
 
 
 
   
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