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新ひだか町静内(エクリプスホテル〜御殿山チャシ往復)

 令和2年7月7日(火)8.6km 1時間4分

 日高管内に出張し、新ひだか町静内のエクリプスホテルに泊まったので、朝走ることにする。今日の目的地は目名地区にある御殿山チャシである。距離はわからないが朝5時に目が覚め、1時間くらいあるので、走ってみてみることにする。
 ホテルを出るとすぐに地蔵菩薩があり、その後すぐに静内神社に到着。この由緒は、以下の通り。

【転載はじめ】
 大正八年に蛭子神社と神武天皇社を合併して静内神社と称した。慶応三年の社記には蛭子神社について「土地人海中に網を曳けるに一帯の光明赫奕(かくえき)たるを得たり、其形人の如し。漁猟満足を祈るに必ず応験あり」とある。
 神武天皇社は、勤皇派であった稲田家臣団が静内郡開拓の朝命を受けて明治四年淡路から移住した際、神武創業の古に復するという明治維新の種子を奉じ、開拓の守護神として奉斎した。昭和20年早春現在地に遷し、昭和40年社殿を改築した。
【転載終了】

 神社から4qほど北上すると右手に高台が見えてきた。北の零年の看板があり、左折すると岡田牧場の門のところに、旧稲田家屋敷跡の碑があった。明治4年に徳島藩洲本城代家老稲田邦植はこの地に屋敷を構え、邦植の弟稲田邦衛が長く居住し大正15年まで姿をとどめたという。淡路島の稲田家は静内に上陸して結構内陸に定住したのだと考え、また、岡田牧場は稲田家の家臣なのだろうかと思って道をさらに進むと正面に小高い丘が見えてきた。
 その丘の中に入ると、そこは御殿山公園であった。説明板によると、静内開拓の使命を受けた稲田邦植の居住せる庭園の一部で、稲基神社、開拓記念碑などがあるとともに、縄文時代晩期約3000年前の墳墓群があるそうだ。この小高い丘に3000年以上前から人々が居住していたと考えると意義深い。公園に入るとすぐにその稲基神社があり、お参りして進むと、「メナチャシ跡」があった。

【転載はじめ】メナチャシ跡(平成9年12月2日指定)
 チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1〜数本の溝を掘って築かれています。
 メナチャシは、17世紀、静内川上流に勢力を誇ったハエ(現日高町)のオニビシ方のチャシといわれています。オニビシは静内川を舞台に、下流に勢力を誇るシャクシャインと争い、ここでシャクシャイン方に討ち取られたと伝えられています。
【転載終了】

 シャクシャインは17世紀のアイヌの英雄だったが、北海道全体に勢力を拡大するまでに、地域間の小競り合いを制し、ここがその舞台だったとは感慨深い。
【城 跡 名】メナチャシ(御殿山チャシ・文四郎館)
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内目名(旧静内郡静内町)
【創建年代】不明(17世紀?)
【創 建 者】不明(オニビシ?)
【形  態】:丘先式
【主な遺構】空壕:ヲの字状壕

 同チャシには、濠が明確に残っており、最近整備されたような橋もある。濠はがけ下に向かって馬蹄上に二重で掘られている。真ん中の平地は根室のチャシ群と比べても広いように感じる。現在は周囲が森に囲まれているが、木がなければ、静内川の流域を見渡せる場所となっている。

 チャシの近くに「北辺開拓の礎 北海道知事 町村金五書」があった。転載させていただく。

【転載はじめ】
 静内新冠の開拓は徳島藩の藩老淡路国洲本城在番の稲田九郎兵衛邦植の引率した移民団体によって始められました。
 明治維新の際関東征討総督有栖川宮御守衛の重任を命ぜられた邦植は直ちに手兵を率いて馳せ参じたところ 徳島では本藩の許可を得ずしてお受けしたのは僭越なりとして咎めたて 蜂須賀藩士が洲本城下を攻撃するという稲田騒動を惹起した 稲田方では暴を以て報ゆべきではないとして麻の上下を着て無抵抗を示したため 徳島藩の首謀者以下は処罰され邦植始め旧領民は兵庫県に藩地換を命ぜられた この時恰も政府が諸藩藩士等に北海道開拓を命じて支配地を興えることを聞いた邦植踏破断然決意して北海道移住を出願し日高國静内郡新冠の支配を命ぜられたので 明治三年七月血気の壮武四十七名の先發に續いて四百八十余名の士族と十余名の百姓組は洲本から静内に直航して入植した 明治四年八月二百十五名を乗せた汽船は暴風雨に会って沈没し 衣類家具什宝類を預け入れた倉庫も失火して全焼するなど多くの不幸に見舞われながら静内の基礎を築いた先祖達は 今日の繁栄を夢想だにできず望郷と苦闘の一生を終えてこの地に埋まって永久に町民を守護している いまこの先祖たちの遺勲を偲び将来の静内発展の糧になることを願いこの碑は建設された
   昭和四十三年八月 北海道稲田会会長 浅川義一 ら
【転載終了】

 隣にも開拓の碑があったが、漢字とカタカナの碑で転載が面倒なので割愛させていただく。いずれにしても、意義深い史跡探訪ランであった。
   
   
   
   
   
   
   
 
   
   
   
 
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