Toruトップ  >マラニック   >歴史
東京都世田谷区(経堂〜世田谷城〜東急世田谷線上町)

 令和2年7月10日(金)2.1km 22分

 東京出張二日目、朝早く起きることができたので、電車で少し長躯し都内のお城跡の一つである世田谷城址を走って訪問してみることにする。
 小田急線の特急で経堂から走り始める。商店街の中を通り、豪徳寺の脇を走ると世田谷城跡があった。おそらく自然の丘を活用した城跡なのだろうか。現在は公園になっており、丁度ラジオ体操が行われていた。
 ラジオ体操の脇を通って階段を昇り、見下ろすとお堀跡らしきものが確認できた。

【転載はじめ】世田谷城址公園(現在地:豪徳寺二丁目)概要
 世田谷城の南東部の郭を中心として一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。
【転載終了】

【転載はじめ】吉良氏と世田谷城
 世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治元年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
 応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また15世紀後半には江戸城の大田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
 その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
 その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが場内にあったとされる吉良家の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。
【転載終了】

【転載はじめ】城郭構造
 世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
 城郭の構造としては、中央に位置する郭は南北約120m、東西は約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。世田谷城址公園には、土塁の堀の一部が残されています。
 世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭(A)を中心として複雑に展開する8カ所以上の郭や土塁、濠で構成され、郭(A)〜(G)周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、この二つが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられます。
【転載終了】
   
   
   
 
  
 
 
 
マラニックに戻る