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札幌市北区屯田(札幌市中央区宮の森〜琴似〜新琴似〜屯田〜麻生)

 令和2年8月14日(金)14.7km 2時間8分

 本日お盆休み。午後に雨が降るため午前中に近場の屯田まで走ることにする。屯田地区には明治の屯田兵の史跡が数多く残っている。ここは以前も訪問したことがあるが、行きそびれた箇所もあったので再訪した。
 札幌市北区の史跡のホームページに詳しい。
 https://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/index.html へのリンク

【馬霊神蕾?(らいか)号の碑】
 蕾?号はペルシュロン系の種牡馬で、農林省種畜場(真駒内)から馬産改良のためこの地に貸下げになった名馬で、この種牡場により屯田はもとより、江別、生振、新川、篠路など石狩地方の広大な地域の馬産改良に大きな成果を上げた。この馬を飼養していた服部政雄氏がその功績を称えて明治42年に建立したものである。

【馬霊第七王?(おうか)号の碑】
 昭和26年に生まれたペルシュロン種の牡馬で、昭和28年、釧路で開かれた全道共進会で、一等賞、最優秀賞を獲得した名馬で、篠路ペルシュロンの名を上げた。昭和35年仔馬を生んだ後死んだ。その仔馬も母馬のあとを追うように死んだという。石川茂氏が、愛馬の師を悼んで昭和37年に建立した。

【望郷のアカマツ】
 明治27年の春、屯田兵本部は屯田兵が故郷をしのぶよすがにと、屯田兵220戸にアカマツの苗木各2本、みずまつ(オンコ)の苗木1本を「望郷の松」と銘打って無償で配分した。屯田兵の定着率を少しでも高めるための思いやりであるが、屯田兵は喜んで前庭に植えた。平成3年現在4本残っている。

【屯田開基九十周年記念顕彰碑】
 明治22年7月15日に220戸の屯田兵が入植して以来、数度の水害や冷害凶作なので明治42年には70戸余りの小集落になった。しかし、度重なる自然の猛威を乗り越えて一大水田単作地帯となり、昭和40年代に入って住宅地として発展してきた。
 この碑は昭和53年の開基90周年を記念して建立された。

【篠路兵村「移住記念碑」】
 篠路兵村に屯田第一大隊第四中隊として220戸の屯田兵が入植したが、家族も含めると1,056人の集団入植だった。士族屯田としては最終の入地で、出身県は徳島県から29戸、和歌山から37戸、山口県から44戸、福岡県から13戸、熊本県から45戸、福井県から20戸、石川県から32戸であった。この碑は入植して7年後の明治29年に建立された。

【馬魂之像】
 開拓の礎は明治22年 石狩平野の一望荒漠たる未開の原野に屯田兵が開拓の鍬を入れて始まり茲に風雪百年の歳月を数える
 人間が馬と一体となって開墾が行われ その馬が唯一の原動力として駆使されて緑豊かなる沃土に変貌したことにより 屯田地区住民が今日の近代的且つ文化的生活の恩恵に浴することが出来た
 このことを深く鑑みその多大なる馬の労役を讃えて ここに馬魂之像を建立して永久に祀る
 昭和六十三年七月十五日 屯田開基百年記念協賛会 特別事業委員会

【屯田兵顕彰の像】
 わが町 屯田の基礎を築いたのは 屯田兵第一大隊第4中隊で 明治二十二年七月十五日 二百二家族 千五十六人でこの地に入植した
 この屯田兵には二大使命があった
 一つには屯田兵として北辺防備の第一線に献身する
 二つには北海道開拓の先駆者となることであった
 この地に入植した屯田兵は 熊本県四十六戸 山口県四十三戸 和歌山県三十七戸 石川県三十二戸 徳島県二十九戸 福井県二十戸 福岡県十三戸 各県の士族で 寒冷不毛に耐えて家族とともにこの使命に服した
 兵は連日厳格な軍律のもと教練を受け家族もまた教令に従って開墾に励み本道開拓の大きな使命を遂行 大自然の猛威もよく克服して子孫のため 楽土建設に汗を流した
 本道開墾が進むにつれて融雪期には石狩川の氾濫洪水の惨禍を受けしも 土を愛するのは農民の魂である 天災は必ずしも自然の猛威ばかりでなく人為の貧困が天災を生むのであると励ましあい 明治四十五年 土功組合の結成を企画され 水田造成によって部落更生の策は前進したのである 永年にわたって水田耕作経営により今日の興隆を迎えた
 札幌市の急激な膨張発展により水利権を持ちながらも水不足により 土功組合〜土地改良区通算七十余年を経て 解散決意に至り 昭和六十一年三月末日 清算決了 認可を得る ここに屯田開基100年記念協賛会特別事業に対し土地改良組合員より献金によって屯田兵顕彰之像の建立を実現した
 先駆者の偉大な功績を称え今後の屯田町の生成発展を祈念するものである
 昭和六十三年七月十五日 屯田開基100年記念協賛会特別事業委員会

【戦没者顕彰碑】(抜粋)
 明治三十七年二月十日 日露戦争 屯田兵の大半が召集され 第二十五連隊 第二十八連隊 後備野戦補充隊で満州国に出征 乃木大将指揮下の第三軍に編入 二〇三高地や奉天会戦に参加 戦死者11名
 昭和6年満州事変から太平洋戦争まで 現役兵 召集兵として満州 支那大陸 南方諸島 沖縄 中部太平洋 北方海域 千島列島 樺太の各所に転戦 数々の武勲を上げしも国力尽きて 昭和二十年八月終戦 これらの戦争に出征した諸兵は陸軍 海軍 空軍に141名が参戦し戦死者は20名である


 屯田兵の歴史を堪能できて大満足のランニングであった。 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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