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泊村(泊村役場〜泊原発入口〜茅沼〜鰊御殿とまり)

 令和2年10月31日(土)11.3km 1時間35分

 泊村は原発も立地されており、なかなか走ろうと思わなかったが、天気も良く丁度吉方に位置しているので、走ることに。
 役場に車を停める。普通休みの日は駐車場はガラガラなのだが沢山停まっている。後で走ってわかるのだが、原子力の避難訓練のため、役場職員が出勤しているからである。
 最初は役場から南の方に走る。中学校や公民館など、新しくて立派だ。岩内が寂れているのと対照的だ。原発を誘致するとマチが潤うのだと痛感する。今だけ金だけの視点では、寿都や神恵内が核のゴミに魅力を感じるのもわかるような気がする。
 もちろん入ることができない原発の入り口で引き返す。近くのトンネルの近くに洞窟があり、古代の人が使っていたのではないかと想像。また、渋井神社があったが、崖に登山道の痕跡があり、登って見ると途中のテラスに神社跡があった。
 道を引き返して、茅沼方面に走っていく。結構住宅があり昔は栄えたものと考える。途中の診療所や老人ホームも立派だ。住宅がなくなるところで引き返すが、道の突き当りに鉱山があったはず。遠くに禿山が見えるのでおそらくそれがそうだろう。引き返す途中、茅沼鉱山に関連する史跡を見つけた。

【伊地知季雅の墓碑】
 明治7年(1874年)旧鹿児島藩士開拓使主典として就任以来5年間茅沼炭鉱事業不振の時期に改良発展に尽粋し茅沼炭鉱を隆盛に至らしめた。明治11年(1878)冬に至り病に倒れ12月4日死去、時に43歳。政府はその功を賞し異例なる金幣を賜り厚くその霊をこの地に慰めた。(注:茅沼炭鉱 安政3年(1856)〜昭和39年(1964))

 茅沼の入り口には、恵比寿神社庚申塔もあり、歴史を感じる。をあとにして、国道ではなく港側の旧道を走る。漁師の家があるが、ここも裕福そうだ。少し走ると、「鰊御殿とまり」に辿り着いた。ここもお金をかけて整備してある。この泊の地は、鰊で栄えたのだ。

【鰊御殿とまりについて】
 泊村で鰊漁が始められたのは今から約300年前と言われています。明治になって鰊漁が全盛期を迎えると、泊村には50を越える鰊番屋が立ち並び、鰊漁によって莫大な富をもたらした鰊番屋は泊村の繁栄の象徴でもあったのです。
 当時の繁栄を現在に伝えるこの移築、復元された2つの建物は、明治27年に親方の川村慶次郎が建設した「旧川村家番屋」と、大正5年頃に武井忠吉氏によって母屋と棟続きで建設された「旧武井邸客殿」で、どちらも鰊漁が盛んだった当時の泊村の姿をいきいきと想像させます。

 復元された鰊番屋が往時の資料や展示物が数多く展示され、少し気味が悪いが、人形とともに昔の姿を忠実に復元されていた。
   
   
 
   
 
  
   
  
   
  
   
   
   
   
   
   
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