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静内駅〜静内花園町〜新冠町西泊津・東泊津〜新冠左岸の道〜川沿い堤防道〜ピポクチャシ跡(判官館)〜氷川神社チャシ跡
 令和2年11月29日(日)21.5km 3時間1分

 2週連続の吉方のチャシ訪問ランニング。今日は先日訪問できなかった新冠の海側のチャシを走って訪問することに。新冠の街からだと距離が近すぎるので、静内駅から走ることに。しかも、行きは静内の街の北側を大きく迂回し山越えをして牧場地帯を巡ることに。
 旧ピュアの前にウイニングチケット号の像があり、その後静内神社にお参りする。由緒は大正8年に蛭子神社と神武天皇社を合併したのがはじまりだとする。蛭子神社は慶応三年に土地人海中に網を曳くと一体の光明を得たのが始まりで、神武天皇社は、勤皇派の稲田家家臣団が明治4年に移住した際に、神武創業の古に復するという明治維新の趣旨から建てた神社ということで、古い。
 静内の市街地を通り、石井病院の道路を西に登っていく。峠を過ぎると牧場地帯に入り絶景が広がる。河岸段丘を登り降り新冠川沿いを下流に下っていき、川沿いの堤防道、新冠市街の北側を沿うように走り国道を横断し、新冠町青少年の家から判官館に登る。季節柄誰にも会わないが、急斜面で息が上がる。尾根沿いを歩いていくと判官岬に着いた。岬の向こうの切れ落ちたルンゼの向こうがピポクちゃしなのだろう。昔は木の階段状に行けたのだろうが、朽ち落ちて立ち入り禁止になっている。行けないことはないが万が一のことを考え、遠くから眺めるだけにする。 

【ピポクチャシ】
・城 跡 名:ピポクチャシ
・所 在 地:北海道新冠郡新冠町高江489-2
        マップコート4551 096 235*50
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:壕なし
・大きさ標高:50m×40m、標高120m
※出展:「家系城郭研究所」http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/index.htm
     「日本城郭体系 北海道・沖縄編」
・説明板「ピポクの伝説」
 昔、判官館の麓を「ピポク」と呼んでいました。これはアイヌ語で「岩の陰」という意味で、判官館のそばに多くのアイヌの人たちが住んでいました。アイヌの人たちは判官館をポロヌプリ(大きな山、親山)としあがめ、酒を捧げて大切にしたものです。
 ここには昔から「黒い狐」が住んでいました。この狐はピポクの集落に何か悪いことがありそうなときには、あらかじめ教えてくれたり、敵から守ってくれていました。
 ある時、どこからか攻めてきた敵にずいぶんと攻撃され、残った人たちも隠れていましたが、もういよいよダメかといういうときに、神に祈りを捧げてガマで織ったムシロを広げて岩の上から飛び降りたところ、鳥のようにふわりと飛べて、みな無事ケガもなく逃げることができた。これはここの黒狐のおかげであったと言われていました。
・説明板「判官館の由来」
 「京の五条の橋の上」・・・この歌は、牛若丸と弁慶で広く親しまれている。牛若丸は、後の悲劇の武将源九郎判官義経である。梶原景時の奸計によって心ならずも兄頼朝との戦いとなった弟義経は、ひそかに衣川をあとに海路蝦夷地をめざしたという。
 折からの季節風に漂流すること数日、初めて見た蝦夷地は日高山脈の残雪であった。義経は、ふとひときわ目立つ岸壁に気を奪われていた。それは衣川上流の断崖とそっくりであったからだ。
 義経は懐かしさのあまり上陸したが、空腹と安堵感からハマナスの砂丘に放心状態のまま倒れた。しばしの後、水と食料を持った一人のアイヌの娘が立っていた。以後義経は、この娘と暮らすことになる。
 義経はこの岩山を自らの源九郎判官義経の名にちなんで「判官館」と名付けた。
 義経は奥州を出るとき、一羽の鷹を連れていた。それは最愛の妻「静御前」と連絡するための伝書鷹であった。静御前は頼朝の人質となっていたため伝書鷹のとりもつ連絡が、頼朝の発覚するところなり、もはや義経は、この判官館に住むことの危険を悟り、何処ともなく姿を消した。
 それはある海霧の深い朝であった。娘と離別を悲しむ二人の頭上には、哀愁を秘めた鷹の声がまっていた。

 判官館をあとにし、新冠町の市街を走る。市街地にも桂の木があったり、新冠の伝説と歴史が示されている。

【白鳥の子孫】
 昔、新冠の市街地も高江と呼ばれていました。これはかつて、タカイサラというアイヌ民族の大きな集落があったことに由来します。
 ある時、他の場所から来た者に攻められて、この集落の多くの人が倒され、付近は焼きはらわれてしましました。この時、一人の男の子が助かりましたが、男の子は一人で生きていくことができず、泣いてばかりいました。そんなある日、一人の女性が現れ、この男の子を助けて立派に育てました。男の子が成人すると、二人は結婚してたくさんの子供をもうけました。すると荒れ果てたタカイサラの集落の人々が増え、しだいに住みよい場所への変わっていきました。じつはこの女性は、天の神から集落を復活させるためにつかわされた雌の白鳥だったのです。役目を終えた女性は再び白鳥の姿に戻り、大群の中に帰っていきました。
 アイヌ民族の踊りに、みんなで白鳥の声をまねて踊るものがあります。白鳥は新冠でも冬にたくさん見ることが出来ます。その中に、もしかしたら天からつかわされた雌の白鳥がいるかもしれません。

 そこからしばらく走ると、牧柵のチャシが復元してあった。

【万里のチャシ】
 万里=中国の万里の長城をイメージ
 チャシ=アイヌ語の牧柵、囲い、砦の意味
 明治から昭和時代にかけ、旧新冠御料牧場の広大な地域を張り巡らした牧柵を再現したものである。この牧場の設計にあたったエドウィン・ダンは、横木を組み立て、移動も可能なアメリカで”ジグザグ牧柵”と言っていた。この柵を江ランドとされている。また、牧柵の作成には、主にアイヌの人たちがたずさわり、明治末期には柵の総延長が272kmにも及んだという。

 柵のチャシ跡を後にし、昼食を食べてから市街の東端にある氷川神社チャシを訪問する。しかし、チャシらしき遺構は何も残っておらず、また他のサイトで紹介されていた「先住民遺跡発掘慰霊碑」も見当たらなかった。

【氷川神社チャシ】
・城 跡 名:氷川神社チャシ
・所 在 地:北海道新冠郡新冠町東町1
        マップコート551 068 472*84
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:空壕(周濠1条?)
標高:40-45m
※出展:サイト「家系城郭研究所」、「日本城郭体系 北海道・沖縄編」
・「日本城郭体系」より。
 氷川神社チャシは、新冠川河口近くの南側の台地上にあったが、氷川神社境内の整備工事で消失した。台地の先端部を大きく一巡する壕があったが、記録は残されていない。シャクシャインの乱の時の松前藩側の前進基地ではなかったという説もあるが定かではない。

 氷川神社を後にし、国道を走って、静内駅に戻る。
   
  
   
   
 
 
 ピポクチャシ
   
 
 
 
 
 
   
   
 
 
   
   
 
氷川神社チャシ 
 
 
 
 
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