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音更町散策(役場木野支所〜木野大通〜音更神社・千畳敷公園チャシ〜木野大通の西側の町道)
 令和2年12月6日(日)11.5km 1時間34分

 十勝歴史ツアー二日目である。十勝晴れのもと、早朝に音更町を走ることにする。今日の目的地は音更町役場の近くにある千畳敷公園チャシである。木野支所に車を停める。この地は開拓の歴史にあふれている。

【国鉄士幌線木野駅跡】説明板概要
 大正14年帯広・士幌間が部分開通。大正15年上士幌、昭和14年まで十勝三股まで76kmが開通。人間だけでなく農産物・木材・生活物資等を運ぶ重要な交通機関であったが、昭和62年を以て63年間の歴史を終えた。北十勝開発に国鉄士幌線の果たした役割は大きい。
 木の駅は帯広駅から4.4km。木野村甚太郎所有農農場に設置されたので駅名が木野になった。この地は帯広市のベッドタウンなので、北帯広駅という案もあった。駅開設後、木野村事務所も移転し、駅中心に商店や雑穀工場等も増加した。

【北海道集治監音更出張所跡】説明板概要
 明治25年から3年間、北海道集治監十勝分監建設のために「北海道集治監音更出張所跡(仮監)」が北2線〜3線、基線から東1号の地の地域に設置。受刑者300人余りの役業は、文監建設、道路掘削、未開地開拓。音更川上流の糠平周辺から建設用資材を切り出し、流送し、当地で陸揚げ製材、十勝川を渡船で運び、木軌道で十勝分監まで運搬。この仮監には、木挽工場、大工小屋、柾割工場、炊所、監房、戒護部など8棟があり、製材、鍛冶、炭焼きが行われていた。明治27年に現地調査した復命書や看守の手紙で出張所の存在が明らかになった。

 木野の大通を北上し、よつ葉の十勝基幹工場、高速道路を過ぎ、音更町の元町に入ると音更神社に到着した。

【音更神社】説明板概要
 開拓者にとって心の拠り所は、神・仏への信仰であった。
 音更神社は明治33年、仁禮(音幌)農場内に祠を設け「天照皇大神」を祀り、創祀元年とし音幌神社として、明治34年音更外二戸町役場の設置により音更神社と改称。
 なお、劇作家、久保栄が昭和12年に発表し、翌年に上演した戯曲「火山灰地」の神社の秋祭りの素材となっている。

 音更神社にお参りし、役場のほうに歩いていくと千畳敷公園チャシ跡があった。ここは他のチャシとは異なり、熊を誘うために整備されたようである。

【千畳敷公園チャシ跡(チャシコツウンナイチャシ)】
・城 跡 名:千畳敷公園チャシ跡
・所 在 地:北海道河東郡音更町元町3
        マップコート:124 864 815*57
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:空壕(弧状1条)
・大きさ標高:不明、標高不明
・説明板:
 「チャシ」はアイヌ民族の文化にかかわるもので「砦・柵・柵囲い」を意味し、「古謡(アイヌの古い歌謡)の中では英雄の常駐する館」をさします。「チャシ」に「跡」という意味の「コツ」という言葉を付けて「チャシコツ」ということもあり、チャシ跡の意味となります。「チャシ」は主に太平洋に面する根室、釧路、十勝、日高地方に偏在しており、十勝川流域では河口周辺、幕別から音更、芽室に至る中流域に集中しています。
 千畳敷公園のチャシ跡では闘いはなく、壕をめぐらして獣を捕獲していたと伝えられています。また、アイヌの伝説に出てくるところでもあります。
・伝説:
 音更村下音更今の戸長役場の西の高台に小丘あり、チャシコツウンナイチャシと称す。昔時餓熊多く出て人を害す。仍て丘の周囲に堀を穿ち、土人等丘上にありて之を誘殺したる蹟なりという。
 ※出展:「家系城郭研究所」http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/index.htm
  出展:「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋)

 音更町中心部を後にし戻ることにするが、木野大通の一本西側の道を戻ることにする。河岸段丘の上には、音更飛行場跡があった。

【音更飛行場跡】説明板概要
 大正14年5月13日、村医、有田喜代平を会長として青年壮年有志による民間航空設置期成同盟が結成され、関東以北で初の民間飛行場として、音更三号の高台、音更神社の南側のこの地(農村改善センター)の雑木林を切り開いて開設された。
 開場式には、永田一等飛行兵によりイギリス製アプロ式複葉機で記念飛行が行われ、来賓300人、観衆1万人を越えた。その後、機関士から飛行士になった上出松太郎の献身的な努力があったが、五年後の昭和4年春、飛行場は閉鎖となった。

   
   
   
   
   
↓ 千畳敷公園チャシ跡(チャシコツウンナイチャシ)
   
   
   
   
   
   
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