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札幌市(家〜琴似〜新川〜麻生〜百合が原公園〜烈々布会館〜烈々布神社〜日の丸農場跡〜栄町駅)

 令和3年1月17日(日)15.3km 2時間6分

 久々の快晴に誘われて史蹟訪問ランニングに繰り出すことに。今日の目的地は、旧地名「烈々布(れつれっぷ)方面だ。
 O.tone別冊「古地図を歩く 札幌編」によると、烈々布は現在の栄町や百合が原公園のあたり。東は元村街道、西は石狩街道まで、篠路村、札幌村にまたがる広範囲の地域だそうだ。地名の由来はアイヌの人々が「ル・エ・トイェ・プ(道がそこで川を切っている)」と呼んだのを、和人が「レツレップ」と聞こえ、「烈々布」の文字を当てた。篠路烈々布と札幌烈々布の地名があった。昭和12年字名から「篠路烈々布」が廃止され「太平」に、札幌村の烈々布も昭和30年に廃止され、「栄町」となった。それでも「烈々布」の名前は完全に消えたわけではなく、烈々布神社や会館に名残が残っている。
 とのことである。
 家から琴似〜新川〜新琴似・麻生に抜ける道を走る。最初の目的地は、明治時代にあった亜麻工場、現在は麻生球場になっているところである。広い公園や球場以外には当時の痕跡は見つけることができなかった。
 麻生から北48条通を東に向い、東8条のところを北に向かう。この道は「烈々布幹線」と呼ばれている。すぐに百合が原公園の方に向かう道を走る。この道は直線ではない。昔ながらの道だ。すぐに百合が原公園に到着する。この公園を冬に走ったことがなかったので、走ってみる。公園の中にサイロが残っていた。
 札幌市北区のホームページによると、百合が原公園の前は酪農家の敷地であったそうだ。昭和53年まで中西牧場があり、現在公園の横に住んでいる中西俊一さんの祖父の中西藤一氏が酪農を営んでいてサイロを使用していた。当初は木のサイロだったが、昭和4年に現在の石のサイロを設置した。札幌市が北区に百合が原公園を設置する構想があった際、俊一さんの父親の篠路農協の組合長だった中西一男さんが協力を申し出て、その当時50年たったサイロを残すようにしたそうだ。
 公園を一周した後、公園の北側にある烈々布会館を訪問する。ここに烈々布開拓100年史があるとともに、史跡の説版があった。
 
【篠路烈々布開基百年碑】
 この地は、明治14年(1881)福岡県人が報国社を組織して、北海道に渡り開墾したとき、明治16年(1883)にその一部、5、6戸が烈々布に入植したのが始まりである。烈々布という地名はアイヌ語に由来している。(略)

 その後、また烈々布幹線を南下し、北41条通り、いわゆる烈々布街道を東に走る。次に訪問したのが「烈々布神社」。この神社の由緒は次のとおり。

【烈々布神社御由緒】
 明治22年、旧元村字烈々布地内3地区(烈々布、北組、中通)に氏神として奉斎したことに始まる。明治26年11月9日、横山久太郎氏が発起人となり、烈々布地区に、当時札幌鎮守神三吉神社の合祀を受け社殿を建立。大正12年9月、3地区合祀の儀が成立し、第3小学校(現栄小学校)の西隣の現在地に本殿造営。(略)

 そしてその向かいの、ひのまる公園を久々に訪問。ここはかつて「日の丸農場」と呼ばれて、水田もあった地である。「札幌歴史散歩」から転載。

【日の丸公園】
 日の丸公園は、かつてこの地にあった日の丸農場の跡地である。この辺りは低湿地で条件が悪かったため農地にされず残されていたという。この碑は日の丸農場を記念して日の丸水田組合が昭和47年に建てたものである。
 日の丸農場の所有者であった松本菊次郎は、慶応3年(1867年)、今の三重県名張町の農家の次男に生まれた。尋常小学校卒業後、大阪新聞外事部の記者になったが、北海道に興味を持ち、明治23年(1890年)、函館の北海道共同商会に入社。やがて北海道は若い火山灰土が多く、燐酸分が不足しがちであることを知り、肥料販売を思い立ち、日の丸産業を興した。当初、肥料を各地の農場で使ってもらい、その効果をもとに普及を図った。日露戦争などで馬の飼料増産を図るために肥料の需要が高まり、日の丸産業は小川二郎の興農園と並び北海道の肥料販売業界の雄となっていった。
 松本はいち早く、化学肥料の重要性を提唱し、また、北海道のような広大な農地では、人力主体の農法を改め、機械力導入の必要性を説いた。日の丸農場は、化学肥料や農業機械などの試験場を兼ねて、農業経営に乗り出したものである。農場は明治41年11月に北海道英語学校(現:北海高校)を経営していた浅羽靖から購入した。農場は直営地のほか、一部は小作地とし、アメリカから輸入したトラクターなどを導入し、また、真駒内種畜場から入れた乳牛を飼育して、近代的アメリカ農法を実践した。
 当初、えん麦を多く作付していたが、米作が奨励されるようになると水田に切り替えていった。自己所有地と付近の土地を合わせて約150haを創成川の水を利用して造田し、大正2年(1913年)から試作を始めた。小作人は肥料の購入で松本から恩典を受けたが、他の農場に比べて小作料が高かったため、小作争議が絶えなかったという。戦後の農地解放で20年割賦償還で小作人に開放された。このとき、用水路を共同管理する必要から、同24年日の丸水田組合が結成された。しかし、住宅化により、用水路は埋め立てられ、水田は焼失した。

 ここで約15kmを走り、疲れてきたので、麻生駅から地下鉄で帰る。
  
旧亜麻工場跡と思しき場所(公園、麻生球場) 
 
   
   
   
   
   
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