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千歳市散策(千歳神社・フレドイヒのチャシ→アッテウシチャシ→ベサチャシ→ウサクマイ遺跡→→第4発電所→シュトクンネチャシ?)

令和3年5月1日(土)18.4km 2時間38分

 連休の二日目で晴れ間が出そうなので、千歳のチャシ訪問ランに。千歳神社に車を停めて水を汲み、お参りした後、神社境内にあるフレドイヒチャシを訪問。そういえば、朝にネットで新しいお城訪問のサイトを見つけた。チャシや城を自筆で図解しておりなかなか面白い。

 http://yogokun.my.coocan.jp/ へのリンク
 
【フレドイヒのチャシ】
・城 跡 名:フレドイヒのチャシ
・所 在 地:北海道千歳市本町3丁目13
        マップコート:113 827 891*28
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:空壕(弧状2条)
・大きさ標高:標高25m、比高10m
・説明板:なし
・伝説:
1 支笏湖のある千才町の千歳神社の傍らにフルエトエヒというところがある。フルは坂でエトエヒは切れるという意味で、昔ここに今の利尻富士があったが、洪水のために流されて利尻富士になったという。一説にはこの流れていった山が焼尻島になったといい、又礼文島になったとも伝えられている(河野広道氏など)。
2 千歳神社の傍らにフルエトエヒ(丘の切れたところ)というところがある。昔大津波があってここに大きな山があったのが、その津波のためにもぎとられて、長沼町の馬追山にぶつかって、その山をねじまげて石狩川を流れ、海に出て今の利尻島になったという。馬追山をもとサマッキヌプリ(横になっている山)と呼んでいたのは、この山がねじまげられたから名付けられたという(今泉柴吉氏伝)。
  ※出展:「家系城郭研究所」http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/index.htm
  出展:「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋)

 千歳神社を後にして、千歳川沿いを上流に走っていく。高速道路沿いの左岸の河岸段丘がアッテウシのチャシである。自衛隊の敷地で中に入れないのが残念だ。

【アッテウシのチャシ】
・城 跡 名:アッテウシのチャシ
・所 在 地:北海道千歳市桂木四丁目
        マップコート:113 824 868*57
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:面崖式
・主な遺構:壕(半円状3条、盛り土)
・大きさ 63m×42m
・標高44m、比高24m
・説明板:なし
・概要(日本城郭体系)
 この付近はかつてアイヌのコタンの所在した地域であり、第二次大戦前の調査によると、ここの人々の祖印が沙流川流域の人々のものに酷似、口碑も類似していることから、千歳のアイヌ系の人々は大部分が沙流川アイヌの分派に属し、一部は沙流アイヌに近因なムカワアイヌの流れを引いていると考えられている。慶応元年(1648)以来、メナシクル(東の衆)との対立抗争の表面化したシュムクル(西の衆、本拠地は沙流川流域)の領域がシコツを含んでいることを考えあわせ、興味深い。
・伝説:
1 蘭越チャシ・・・先祖の「チャシ」なり。アチウシの神なりと教えられたり、アチウシは蓋し「チャシ」を造りし人ならん。この「チャシ」の方に向かいて大小便を為さず(芦谷カンタチ氏伝)。
2 ランコシ・コタン・・・ランコシのコタンは、古くから現在の位置にあった。コタンの中心にアチウシ・チャシコット即ちアチウシの砦がある。このチャシはランコシのアイヌ達のみでなく、千歳アイヌ全体から尊敬されており、昔は上役人からお咎めがあって呼び出される時には、必ずこのチャシに参拝してからでかけることになっていた(名取武光)。

 アッテウシチャシを後にして、上流に走っていく。アッテウシチャシから2qほどの千歳桂病院のところにベサチャシあるということだ。見学当時は病院背後の台地上の先端部分がベサのチャシと思っていたが、帰って城郭体系を確認すると、千歳川右岸(川の南側)、病院の反対側、名水ふれあい公園に面する大地の先端だった。グーグルマップでも確認できた。写真は今度撮影しよう。

【ベサのチャシ】
・城 跡 名:ベサのチャシ
・所 在 地:北海道千歳市蘭越
        マップコート:113 821 368*72
・創建年代:不明
・創 建 者:支骨の惣大将
・形  態:丘頂式
・主な遺構:壕(不整形楕円上の周壕1条)、盛土
・大きさ 50m×75m
・標高65m、比高40m
・説明板:なし
・概要(日本城郭体系)
 チャシの名称のベサ(又はペサ)はチャシのある丘陵の裾部を流れる小川の名で、千歳川の支流であるが、河川改修され現在は長沼用水路となっている。このチャシについて松浦武四郎は、「夕張日誌」の中で触れている。彼は安政4年(1857)7月19日、千歳川を遡行している途中、ペサのあたりに来たが、このチャシを「支骨の惣大将の館なりしとて、慶安元年戊子那師与之古津久留大戦」と見えしものか」と書き記している。この大戦は寛文9年(1669)のシャクシャインの乱へと発展していったメナシクルとシュムクルの抗争と思われるが、武四郎がどのような理由で、このチャシを前述のように書き記したのか、わからない。

 この辺は千歳JALマラソンで走っているが、その時は周辺の景色など眼中にはなく、また疲れている時間帯である。ベサのチャシのあとは、ウサクマイ遺跡群に向かう。車道から千歳川沿いの砂利道に入り両側から山が迫ってくるところにウサクマイ遺跡の説明板があった。

【ウサクマイ遺跡群(ウサクマイC遺跡)】
 ウサクマイC遺跡は、擦文時代(およそ1,400年前から800年前)につくられた村の跡です。当時のいえは地面に掘った四角い穴に柱をたて、屋根をかけた「竪穴式住居」です。屋根全体を土でおおった家も数多くあったようです。床の中央には炉があり、南側の壁には煮炊きに使われたカマドがありました。
 人が住まなくなった家はやがて壊れ、掘られた穴は完全に埋まらず今でも地面にくぼみとなり残っています。現在、この遺跡では75個のくぼみが見つかっています。当時は3〜5軒の家で一つの村でした。たくさんのくぼみは古代人が数百年間にわたって暮らした、とても住みよい所だったことを示しています。

 当日は風が強かったが、西側の尾根に風が遮られ、その遺跡だけは風がなかった。また、日も当たり暖かく、近くの川からも程よい高さがあり、地面の湿気もなかったものと推察される。この地は川に近く、鮭などの魚が豊富で、周囲は森で食物の動物・植物が豊富で、水も支笏湖から流れる水が確保され、自然の恵みで暮らしていた古代の人々にとって衣食住を確保する素晴らしい環境だったと推察する。

 ウサクマイ遺跡群からさらに上流を遡り、第四発電所の東側の段丘に、シュトクンネチャシがあるはずであり、探索する。車道から外れ川沿いの遊歩道を歩くが、鬱蒼として人通りもなくなり、熊との遭遇が怖いが、来てしまったので仕方ない。しかしあっという間に第四発電所に到着する。発電所の敷地内は立ち入り禁止なので、入口で引き返す。シュトクンネチャシの場所であるが、発電所に近い方の台地先端部のピークと、鮭鱒孵化場の方の台地先端部のピークがあるが、後者の方が登れそうだったので、登って見ると壕らしきものがあった。後者の方が見晴らしが良く、監視機能という面では優れているので、おそらくそこがチャシなのだろうかと推察する。

【シュトクンネのチャシ】
・城 跡 名:シュトクンネのチャシ
・所 在 地:北海道千歳市蘭越
        マップコート:?
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:空壕(周壕1条?)
・大きさ:30m×30m
・標高?m、比高35m
・説明板:なし
・伝説(日本城郭体系)
 松浦武四郎の「夕張日誌」によれば、安政4年(1857)に千歳川踏査中、シュトクンネを通った際「過てオフイチャシ(急瀬)ヌンナイ(右方)人家(ケムヲキサムシュマ)有」と記している。シュトクンネ付近には、今のところ、このチャシが知られているのみである。
 ところで、「シュトクンネ」とはアイヌ語地名であり、「シュト」は「棍棒」、「クンネ」は「黒い」意味であるが、これにまつわる伝説が残されている。昔勇払アイヌがこの部落を攻めた時、千歳アイヌの人々は戦いに負けて、この山に逃げ込んだが、ある日、水汲みに川に降りた一人の女が矢を射込まれ、棍棒が血に染まって黒くなるほど殴られて死んだ。気の毒なその女を忘れないよう、この地名にしたという。

 この第四発電所付近で約10km、ここで引き返し、途中「とん吉」という古い商店を改装したラーメン屋でとんこつラーメンを食べて、千歳市街に戻る。
  
 フレドイヒのチャシ
   
 
 アッテウシのチャシ
   
 
ウサクマイ遺跡群 
   
 
   
   
   
シュトクンネのチャシ? 
   
 
 
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