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定山渓鉄道跡探索(白石駅〜東札幌駅〜豊平駅〜澄川駅〜慈恵学園停留所〜真駒内駅)

令和3年6月12日(土) 15.0km 2時間13分(ランニングの記録であり、鉄道跡の距離ではない)
 
 札幌市内は各所を走っているが、定山渓鉄道線、特に現在のJR北海道函館本線から、どのようにして札幌市内を巡っていたのか確かめることにした。

【定山渓鉄道】ウイキベテアより。
 1913年(大正2年)に、国鉄苗穂駅から定山渓に至る軽便鉄道として、定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的として計画された。当初は、苗穂駅から豊平川の左岸を遡り、石切山付近で札幌市街馬車鉄道と平面交差した後に豊平川を渡り、右岸を通って定山渓へ向かうルートを想定していたが、1913年(大正2年)8月の豊平川洪水を受けた護岸工事で当初の敷設予定地が使えなくなった。そのため、1916年(大正5年)4月13日付の認可で分岐駅が苗穂駅から白石駅に変更となり、その後も月寒地区経由から豊平経由に変更されたり、真駒内地区では北海道庁種畜場の関係でルート変更を余儀なくされたりしたため、最終的に計画が固まったのは1917年(大正6年)8月のことであった。また、資金繰りの難もあり、定山渓鉄道株式会社の設立は1915年(大正4年)12月20日と当初の計画から大きく遅れている。
 工事施工認可は1917年(大正6年)4月6日で、22.5 kg/m軌条や車輌については国鉄の払い下げを受けた。こうして、81万2千円の費用をかけて白石駅 - 定山渓駅間 (29.9 km) が1918年(大正7年)に完成し、同年10月17日に開業した。開業当初は白石駅 - 定山渓駅間3往復と豊平駅 - 定山渓駅間1往復の運行で、白石駅 - 定山渓駅間を1時間30分で結んだ。定山渓鉄道は、定山渓温泉の発展とともに順調に業績を伸ばした。会社は1932年から札幌からのバス運行も始めた。1930年代には木材・鉱石の貨物輸送も増えた。太平洋戦争中には温泉客が減り、鉱石・石材輸送に重点が置かれた。資材不足が深刻になり、終戦時には稼働率4割に落ち、列車の窓の1/3がベニヤ板に変わっていた。定山渓鉄道線の全盛期は戦後復興とともに訪れた。まず、定山渓温泉が繁栄を取り戻した。1949年から1963年まで、定山渓鉄道線は、夜間発の往復と、ビール券、とうきび、枝豆、温泉利用をセットにした「月見電車」を走らせた。会社が整備した豊平川沿いのハイキングコースは、多くの市民に利用された。1944年に事故で閉山した豊羽鉱山が1950年に再開し、定山渓鉄道がその鉱石の輸送を引き受けた。1957年に、東京急行電鉄が定山渓鉄道の株を買収し、傘下に収めた。これにより、駅・営業所ごとに予算や営業目標を立てたり、沿線で宅地開発や高校の誘致に取り組んだりするなど、東急式の経営が導入された。東急グループを当時率いていた五島慶太は買収に4か月先立つ同年6月、札幌市産業会館で約170人の地元経済人を相手に「北海道における交通政策」と題して講演。札幌都市圏の私鉄を統合し、定山渓鉄道線と夕張鉄道線の延伸も視野に入れ、札幌市と江別市の間に新たに20キロメートルの鉄道を敷く構想を披露したが、1959年に五島が逝去したことなどで実現しなかった。
 しかしこの頃から鉄道は貨物をトラック輸送に奪われ始めた。特に1963年からは豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられた。また、東急傘下入り後に打ち出されていた複線化が実現できず運転間隔が短縮できないまま道路事情が好転し、徐々に乗客がバスやマイカーに奪われた。これにに加え、1966年に北海道警察本部から豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているとして高架化するか廃止して線路を撤去するなどの適切な処置を取るよう勧告された。こうした劣勢の中で、札幌市が地下鉄南北線を建設することに伴う用地買収を申し出た。会社はこれに応じて、1969年に鉄道部門を廃止した。廃止後は電車路線に沿う形で代行バスが運行されていたが、既存のバス系統と再編・統合され1970年に廃止された。

 JRで白石駅まで行き、線路沿いを走り始める(1〜3)。米里行啓通の高架下(4)左にカーブする道に来た(5)。間違いなく線路跡である。駐車場となっているところも枕木を使っており、線路跡のようだ(6)。線路跡は工場の間を辿る(7、8、9)。国道12号線の下(10)をくぐり、工場敷地を通ると、コンベンションセンターとRASORAの敷地であり、東札幌駅があったところである(11、12)。RASORAの南郷通り沿いの向かいはが自転車道路であるが、旧千歳線と定山渓鉄道にすぐに分岐する(13)。定山渓鉄道はそのまま南下をつづける。おそらく現在地はマンションになっているであろう(14)。そしてしばらく走るとじょうてつバス本社があった(15)。もちろんこの会社の前身は定山渓鉄道である。
 しばらく南下し国道36号線を渡ると、豊平駅の説明板があった(16、17)。おどろきであるが、この地は定山渓鉄道の駅と、札幌市電の駅があったのだ。

【説明板:豊平駅今昔】
 金属製の大きな説明板の上部には、右から順に「昭和5年 旧豊平駅前と定山渓温泉宣伝キャラバン(株じょうてつ提供)」と題された白黒写真「昭和二十九年頃の市電豊平駅付近」と題された略地図「昭和44年 市電豊平線豊平駅と横断歩道橋(札幌LRTの会提供)」と題された白黒写真
が掲げられており、その下の右側には、「豊平駅前今昔安政四年に室蘭街道が開削され札幌開拓に伴い豊平地区の居住者が増え、大正七年には定山渓鉄道が開通し現在の豊平六条に豊平駅が開業したことで、木材等の集積地及びターミナルとしての豊平地区繁栄の礎が築かれた。
 昭和四年に駅舎を豊平四条九丁目に移転するとともに電化され高速化と大量輸送が実現した。同時に市電豊平線が豊平駅前まで延長され札幌中心部と人々の往来が増え豊平地区が益々賑わうこととなった。一方、自動車が増加し市電乗客の安全のため電停と歩道を結ぶ横断歩道橋が設置されたが、乗客の減少により昭和四四年に定山渓鉄道が、昭和四六年には市電が廃止された。
 室蘭街道は戦後舗装され弾丸道路とも呼ばれ、現在一日に六万台が往来する道内有数の交通量を誇る国道となっている。
 本年豊平地区町内会連合会は創立五十周年を機に豊平駅が地域に果たした功績を後世に残すためこの記念碑を建立する。平成三十年十月 豊平地区町内会連合会」と記され、
左側には、「安政4年(1857) 幕府の命により札幌越新道の星置から島松までの道路開削を阿部屋伝次郎が請負う。
明治2年(1869) 札幌の開拓がはじまり豊平橋より室蘭街道沿いに居住者が増えていった。
大正7年(1918) 定山渓鉄道開通。札幌市内に路面電車開通。
大正13年(1924) タイドアーチ型豊平橋が完成し、豊平地区に路面電車延長される。
昭和2年(1927) 札幌市が路面電車事業を買収。
昭和4年(1929) 定山渓鉄道電化、豊平駅を4条9丁目に移転。市電を豊平駅前まで延長。
昭和24年(1949) 蒸散系が支笏洞爺国立公園に指定される。
昭和25年(1950) 市電豊平駅前停留場を駅前広場引込線に設置される。
昭和41年(1966) 国道車両の増加により再び停留場を国道に移設する。 北海道初の横断歩道橋を8丁目国道に設置する。
昭和44年(1969) 定山渓鉄道が電車事業を廃止。
昭和46年(1971) 市電豊平線廃止になる。
平成27年(2015) 8丁目横断歩道橋撤去される。」

 国道36号線からさらに南下する。おそらく東光ストアの中を線路は走っていたのだろうと推測(18)。そこから線路跡は公園(19)の中を通って、平岸街道の二本東側の小道を通るのだが、間違って平岸街道に出てしまった。「鉄道歴史地図」さんのお陰で戻ることができた(20)。便利な世の中だ。今度は道なりに南下し、見覚えがある緑地帯(21)を過ぎ、環状線(22)を渡ると、地下鉄南北線が地上に出るところだった(23)。
 今度は地下鉄沿いを走れば良いので迷うことはない。走るとすぐに南平岸に到着した(24)。定山渓鉄道時代にはここには駅がなかった。南平岸から一端平岸街道に出ると雨が降ってきて、ちょうど11時で純蓮の開店時刻だったので、入店して醤油ラーメンを食べた。ここは味噌以外もうまい。
 ラーメンを食べたあと、南下すると本願寺道路の終点に差し掛かった(25)。発見だったのだが、ここは豊平区と南区の境界なのだ。ここからお腹いっぱいなり、ボーっとしていて自衛隊前駅近くまで来てしまった。澄川駅は定山渓鉄道の駅でもあるのである。疲れたが2qほど戻って澄川駅の写真を撮影する(26)。
 澄川駅からさらに南下して、自衛隊前の手前、消防団の施設の前の空地、以前は児童館だったところが慈恵学園前駅である(27)。慈恵学園は現在新陽高校になったとのこと。
 とても疲れてきたが、気を振り絞って進む。自衛隊前駅(28)を過ぎ高速電車基地のところが、旧真駒内駅である(29)。実際の駅は線路の東側の真駒内東町桜公園のようである。
 本日は、旧真駒内駅で散策を止めて、自衛隊前駅から家に帰る。 

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