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札幌市豊平区 月寒公園の碑

令和3年9月5日(日)16.5km 2時間26分

 家〜大通〜菊水〜月寒公園〜平岸〜すすきの〜大通

 久々に月寒公園まで走ってみた。月寒公園は整備されていて、歴史の碑には説明板が整備されていた。
 いずれも「歴史のあしあと札幌の碑」さんを参考にさせていただく。

【阿部與之助表懿徳碑】(あべよのすけのいとおくをひょうするひ)
 公園に入ると、巨大な自然石の碑がある。碑の上部には「表懿徳碑」と篆刻されており、その下に漢文の碑文が細かく刻まれている。背面には「大正元年十一月落成之 有志者」と刻まれている。
 説明板には次のとおり記されている。
「この碑は、豊平村の発展に多くの功績を遺した、阿部與之助をたたえて、大正9年(※大正元年との説もあり)、当時の有志によって建てられました。
 與之助は、天保13年(1842)12月11日、山形県飽海郡南平田村字北俣で、5男2女の3男に生まれましたが、生家は貧しく、わずかな田畑を耕すかたわら、日雇いなどをして細々ながら、その生計を支えていました。
 明治に入ってから、前途有望な北海道での開拓を夢見て、明治3年7月、単身30歳で北海道の岩内に渡りました。しかし、未知の土地では職がなく、岩内で漁夫を、その後札幌に移り、商店で働きながら、農業自営を目指して貯蓄に励みました。
 一方、生家は増々貧困の度を深め、それを知った與之助は心を痛め、翌年資金を懐中に一路郷里へ戻りました。明治5年の春、與之助は北海道での開拓の夢を捨て切れず、再び本格的な営農を目指し、豊平村に永住することを決心しました。
 與之助はかつて豊平川の渡し守をしていた志村鉄一から土地を買い求め、開墾のかたわら雑役夫を、妻チノは茶屋店を開くなど夫婦力を合わせて働き、10年もたたないうちに広大な田畑を所有する村内有数の地主となりました。與之助は明治維新の社会変動の中で、生活に苦しむ郷里の人々を救済したいという願いを実現するため、郷里から63戸の農民を誘致して入植させ、稲作を奨励し、さらに稲作発展のため、用水路建設の必要性を説き、豊平・平岸・白石・上白石の4カ村連合の用水路建設に多くの私費を投じました。
 また、開拓が進むにつれて、森林の荒廃が目立ち始めた明治19年以降には、造林、育苗の事業を起こし、林業の普及に力を入れる一方で、道路や橋の建設、小学校の創設、消防組の編成、役場庁舎建設費の負担など、多方面にわたる業績が残されており、村人の敬慕を一身に集めながら、72歳の生涯を終えました。」


【吉田善太郎功労碑】
 公園の奥に進むと碑が二つあり、右側の高い方が吉田善太郎の碑があった。この人の孫は、吉田善哉で現在の社台王国を築き上げた人だ。
 石碑は風化して判読不可能で、資料によると面の上部には、歩兵第25聯隊長であった稲村新六大佐の書になる「開拓餘光」の篆額が施され、その下には当時の官幣大社札幌神社宮司であった額賀大直の書になる碑文が刻まれているそうだ。
 説明板を転載させていただく。

「この碑は、生前の吉田善太郎の業績をたたえて、大正2年11月(※明治43年11月との説もあり)、地元の有志をはじめ、多くの賛同者の手によって建てられました。吉田家は旧士族で、代々南部藩に仕えていましたが、明治維新によって藩が廃止されたため収入が途絶え、生活することが困難になっていたことから、44戸の月寒組開拓移民団に加わって、北海道に移住することになりました。
 吉田善太郎は、父善治の6男1女の長男として、文久元年(1861)4月17日、岩手県南岩手郡上田村で生まれ、移住してきたときは10歳でした。農業の経験に乏しい吉田親子にとっての開墾作業は、まさしく闘いそのものでしたが、旧士族の誇りを捨てず、堅実に耕地を広げ、炭を焼いて売り、雑役を拾い、ひたすら資力の蓄積に励みました。
 明治14年父善治亡き後、長男善太郎は弱冠20歳の家長として一家を支え、資力を活用して農業開発の努力を惜しまず、独立心のある小作農には土地を譲り、多くの自作農を輩出させました。
 善太郎の業績のなかで特筆されるのは、清田から北野、大谷地、下白石を経て月寒川に至る、延々6kmに達する水田用水路を造りあげたことです。善太郎は、郵便局長をはじめ多くの公職を努め、大正2年の大凶作のときは、所有地を抵当に資金をつくり、それで救済事業を起して農民を助け、多くの人々の敬慕を集めました。
 現在、月寒公園にある善太郎の碑石は、彼を慕う青年たちが、コロ(細い丸太)を使って、手稲山から3日がかりで運んできたものといわれています。善太郎は、明治の気骨を失うことなく、強固な信念をもって生き抜き、町政の発展に大きく寄与し、数多くの業績を残しましたが、大正5年11月、55歳の生涯を終えました。」

【開町五十年記念碑】
 「吉田善太郎功労碑」の左に位置するのが、「開町五十年記念碑」である。この碑も鎖に囲まれた敷地の中央部に建っているため、遠目では碑面の文字が判然としない。資料によると、碑銘の「開町五十年記念碑」の脇に、「北海道庁長官 笠井信一」と刻まれているそうだ。
 説明板を転載させていただく。
「この碑は、豊平町開町50年にあたる大正9年に、当時の有志によって建てられました。
 豊平における和人(日本人)の最初の定住者は、安政4年(1857)、豊平川の渡し守となった志村鉄一ですが、本格的な開拓が始まったのは、明治4年、岩手県から65戸が平岸に、44戸が月寒に入植してからです。また、このほか阿部與之助など単独移住者も少なくはなく、開拓に励んでいました。
 しかし、開拓使の保護政策が打ち切られると、たちまち苦境に陥り、明治初期の入植者で、最後まで踏みとどまった人は少数でした。豊平の成長期は、自力開墾による第二次開拓期ともいうべき、明治20年代に入ってからです。
 厳しい気候風土の中で冷害凶作などの天災に負けない農業改良を探求すべく、明治21年には、白石、上白石、豊平、月寒、平岸の5カ村の有志が、札幌有志農談会を結成し、後に品評会を開催するなどして、品質の向上を競い合うまでになりました。
 豊平村の室蘭街道(現国道36号線)筋には、明治23年ごろから、馬車、馬橇、馬具、蹄鉄業をはじめ、食料品店、飲食店などが開店し、次第に商店街を結成していきました。
 平岸村では本格的な果樹園がはじまり、明治27年の統計によれば、札幌近郊のリンゴ生産額は、全道生産額の約8割を占めていました。
 月寒村では明治29年に軍隊が条中(のちの月寒駐とん部隊)したことにより、街道筋に焦点が増えはじめ、明治30年には郵便受取所が開設されました。
 このように3カ村がそれぞれの条件下で発展しながら、明治35年に合併して豊平村となり、さらに明治40年には一級町村制がしかれ、明治41年、豊平村は豊平町と改称、明治43年に札幌区(市)に編入し、現在の発展に至っています。」

【忠魂碑】
 月寒神社の社殿近くに石積みの台座の上に大きな自然石でできた碑が建っている。よく各地域にある神社に忠魂碑があるが、明治時代に兵士たちの霊を慰霊するために建てられているものだが、通常は紹介しないが、説明板が素晴らしかったのんで紹介する。下から見上げただけでは碑銘のほかの文字が判読できないが、資料によると、「忠魂碑」と筆太に彫られた碑銘の脇に「陸軍大将子爵 大迫尚敏書」と刻まれているそうだ。また碑の背面には、「大正四年八月建之 在郷軍人會豊平町分會 豊平町有志」と刻まれているそうだ。
 説明板を転載する。
「この碑は、明治37〜38年の日露戦争で戦死した旧豊平町出身の兵士の勲功をたたえ、その霊を慰めるために大正4年8月、在郷軍人会豊平分会の有志により建てられました。
 当時、わが国には徴兵令がしかれ、満20歳に達した男子に、兵役の義務を課しました。北海道に徴兵令が適用されたのは、明治29年4月からでした。
 明治29年12月、月寒に第7師団の独立歩兵大隊が設置され、各部隊の編制整備が行われました。その後も、富国強兵の国策に基づいて、軍備は増強の一途をたどり、やがて日露戦争が始まりました。
 第7師団の各部隊は、最も激烈を極めた旅順要塞(※遼東半島先端部の旅順にあった要塞)の攻防戦に参加したこともあり、多数の犠牲者を出す結果となりました。この戦争は日本の勝利に終わり、第7師団は、明治39年3月までに全部隊が凱旋し、沿道は日の丸の小旗をうち振り、万歳を歓呼する人波に埋まったといわれています。
 しかし、遠い異国の戦場に散った兵士たちの遺族は、歓呼の声とその人波をさけて、肉親を失った悲しみに耐え、長い時間をかけて、心の傷を癒していったのでした。
 昭和初期までは毎年盛大に慰霊祭が行われていましたが、平和公園(月寒西2条7丁目)に月寒忠魂納骨塔ができてからは参列者も少なくなったといわれています。」
 碑銘を揮毫した大迫尚敏(おおさこなおはる)は、日露戦争の際の第7師団の師団長を務めた人物です。この戦功によって子爵に叙され、その後明治天皇に殉死した乃木希典に代わって、学習院長に就任したとされている。

 

  
   
   
 
   
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