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札幌市南区藤野 本願寺街道碑 藤野神社

令和3年9月19日(日)10.1km 1時間32分

 今日も吉方である南方の南区藤の沢を走る。トライアルに車を停めて走り始める。国道の南側の藤野通りを西に向かう。突き当り、簾舞の住宅地を過ぎて、簾舞中学校の東側の高台の上に立つ。車は行けないが、舗装していない細い道を降りると本願寺道路の説明板があった。今通ってきた細い道は本願寺道路だったのだ。

【札幌ふるさと文化百選・本願寺街道】
 「簾舞二星岱麓の南側および旧「山の上」(現・簾舞団地)と称したところに、札幌の黎明期僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の大原始林に挑んで、一条の道筋を開削した「本願寺道路」(別名・有珠新道)の跡がある。
 安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家、松浦武四郎だった。  明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、東本願寺は「新道切開」「移民奨励」「教化普及」の目的により、政府に北海道開拓の官許を得て、翌3年若干19歳の法嗣現如(げんにょ)上人が中心となり新道の開削を始めた。特に札幌と函館を結ぶ重要道路として、工事に最も力を入れたのは、尾去別(おさるべつ)(伊達市)から札幌平岸まで道幅約3m全長26里(約104km)の事業で山間渓谷難所続きも1年3ヶ月の突貫工事により4年10月に完成させた。それは、現在の国道230号線の原形となったもので当時の姿の一部を簾舞でしのぶことができる。
 また、明治5年1月開拓使は、この道を利用する旅人へ宿泊休憩などの便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩清五郎一家が、この地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。
 この街道が後世、地域発展に大きく貢献した事は言うまでもない。往時を知る貴重な「史跡」である。平成8年10月10日・簾舞通行屋保存会」

 この案内板の脇には、「本願寺街道跡」のモニュメントがあり、その一面に「ここは、札幌(平岸)と伊達紋別(尾去別)を結ぶ(有珠新道本願寺街道)の一部である。東本願寺は、新政府に北海道開拓の許可を受け、明治3年(1870年)当時19歳の現如上人が中心となり、新道を開鑿した。1年数ヵ月という短い期間で26里(約104q)が完成した。現在の国道230号線の原形となったものである。」

 その次に二星岱を登ろうとしたが、道も荒れており、ヘビも怖いので断念する。また冬にでも来よう。
 国道を横断し、藤野の旧道を走って戻る。藤野神社を再訪する。境内に地区の沿革、神社の由緒、馬頭観音等を設営する立派な説明板が設置されていた。

【藤野地区の遠隔】
 藤野の地は、豊平川の南側に位置し、東を石山、西を簾舞、北を白川の各地区と隣接してる。昭和四年に字名改称により藤ノ沢となり、昭和十九年に豊平町の字名解消により隣接する野々沢と統合され、両町名の一字ずつをとって藤野と名称された。
 藤野の地は、松前の豪商村山伝兵衛が持ち船を造る木材を切り出すことに始まったといわれている。村山家の店印が、「丸に十五」であったことから、この地はかつて丸重吾または丸重吾の沢とも呼ばれいた。明治になって丸重吾の沢、上野々沢、下野々沢に区分され、山鼻・篠路屯田の公有地があったことから、明治十四年頃から屯田兵による開墾が始まり、明治三十年後頃より入植者も増加するようになった。大正から昭和にかけては果樹・野菜の供給地として発展し、また昭和になって登山コースやスキー場の開設により観光産業が進展した。昭和三十年頃より定山渓鉄道の開設や国道の舗装によって宅地化が始まり、都市基盤整備などにより今日のような大型商業施設を有する一大住宅地ととなった。

【藤野神社由緒】
 昭和30年代に入り急速に宅地開発が進んだ野々沢部落の人々により、昭和36年9月、既にあった馬頭観世音碑の隣に「下藤野神社」と書かれた木の標柱が建てられ、馬頭観世音祭に合わせ神事が行われた。昭和47年に同地区の含笑寺観音堂建て替え時の古材を利用し、部落民の労力奉仕で社殿が完成。同年9月23日、北海道神宮の御祭神を祀った。昭和48年8月に「有志のみでの神社運営は困難である」との意見により、各単町選出者を委員とした「下藤野神社管理運営委員会」を発足。昭和49年に運営委員会は総代制を取り入れ「下藤野神社奉賛会」と改称。同年9月に社務所造営。昭和51年8月、「下藤野」という地名はないことと、藤野沢地区に「藤野神社」が存在したことから、神社名を「札幌藤野神社」に改称した。昭和52年9月大鳥居献納(藤本繕三氏)、同年12月本殿新築・拝殿内部造営。昭和54年4月社務所造営(旧社務所は神輿庫として移設)。昭和55年8月第二鳥居建設。昭和63年12月大鳥居(第一鳥居)を造り換える。平成4年9月創立20年事業として社号標建立。平成6年9月手水舎完成。平成9年9月社務所を新築、また本殿横に斎館を新築。平成20年9月法人格取得・第一鳥居改築。平成24年9月宮司・代表役員に北海道神宮宮司吉田源彦が兼務宮司として就任。平成25年11月神社本庁の被包括法人となる。

【馬頭観世音碑】
 明治三十年頃より藤野の地にも入植者が多くなり、この地の開墾が始まった。
 当時は機械もなく土地を開墾する上で欠かせない稼働力が馬であり、農閑期には馬は造材搬出などにも使用された。古くから馬を守護する神仏として馬頭観世音菩薩が信仰されてきた。その姿は憤怒の形相をし、人々の煩悩を消滅させる功徳を持つ仏とされたが、頭上に馬頭を置くことからいつしか馬の守護神として信仰されるようになった。藤野の地でも馬の病気や健康を祈り、また道行く人々や集落の安全を願うために、大正十四年に馬頭観世音碑が建てられ、春は四月、秋は十月十八日を祭日としてお祭りが行われるようになった。当初は路傍の神として石碑が建てられたが、藤野の地の発展にともなって地域からの崇敬も受けるようになった。昭和の御代の御大典記念の文字が伺われる、現在も地主神とおして馬頭観音とも通称され、札幌藤野神社の例祭に合わせて、藤野の歴史・開拓の先人たちの功績を顕彰する開拓祭が行われている。

【藤野開基百年記念碑】
(これは特に説明板無し)

【まる千坂の由来】
 明治十六年まる千の屋号松沢松之助氏(岩手県出身)がこの地に入植し開拓の鍬をおろしたことから、この坂をまる千坂と呼ばれるようになった。藤野地区開拓の第一歩を印した地であり、先人の遺業を偲びここに開基百二十年を記念して、この碑を建立する。
平成十六年五月 藤野地区開基百二十年記念事業実行委員会」

 そのあと、豊平川河川敷を走って車に戻った。
 
  
   
   
 
   
   
 
   
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