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網走市 桂ヶ丘チャシ、網走外三郡役所跡、永専寺山門
令和3年10月9日(土)9.6km 1時間33分
 
 網走刑務所→網走駅→桂ヶ丘チャシ→網走神社→市内散策

 土日を利用してオホーツクのチャシ巡り。しかし、網走は遠い。最初は網走刑務所前の駐車場に車を停めて、桂ヶ丘チャシを訪問してその後市内を散策することに。
 桂ヶ丘チャシは桂ヶ丘公園の入口にあるが、道を一本手前から入ってしまい、網走小学校の敷地内を彷徨うと、網走市立博物館を見つけた。
 この博物館は、旧小熊邸や日本基督教会北一条教会などを設計した田上義也(1899〜1991)の設計だそうだ。道理で洒落ている。
 桂ヶ丘チャシは、博物館から下の公園入口にあった。明瞭な壕、土盛りがある。樹木に囲まれているが、市内や海を一望できる位置にある。

 【桂ヶ丘チャシ】
・城 跡 名:桂ヶ丘チャシ(チャランケチャシ、イシメンナイチャシコツ)
・所 在 地:網走市南6条東4丁目
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:山城・面崖式
・主な遺構:壕(半円状1条、直状1条)
・大きさ:50×30m
・標高:20m、比高:10m
・説明板:丘陵の一端に在り空壕を穿ち土塁を築き防御陣地となしたるものにして今尚二、三の穴居の址を留め大小二個の小陵が並びある処からアイヌ人はこれをチャランケチャシともとなえた。
・伝説「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋):此チャシはオホーツク海海岸では唯一のものだ。網走アイヌが湧別や紋別のアイヌと戦った古戦場だと云われる。今は故人となったが、美幌のヤーラモネスの話に依ると此チャシにプンキ(番人)が居、部落を守っていた。敵が夜襲して来た時にオトイバ(ホウという声)を出して急を知らせるのだが、大敵と小敵では声の出し方が違うそうで、小敵の時はハンケオトイバ即ち近い声、大敵の時はトイマオトイバ即ち遠い声で知らせた。アイヌ人は神秘的な此の声が一里も二里も聞こえると信じている。ヤーラモネスに何故攻めてくるのだの聞いたら、宝物を取りに来るのだ頗る簡単に答えた。昔釧路アイヌが北見に遠征し、美幌を征服して夜網走に迫ったが、其の時網走は大した騒ぎを演じて居たので其の声を聞いて戦備整ったと思ひ常呂を襲った。常呂アイヌは戦わずして降伏し、歓待の努める一方急を湧別、網走、斜里に報じて救援を乞うた。此の報に接して各地の連合軍は酒に酔いしれ居ている釧路アイヌを皆殺しにした。網走町キナチャシナイ付近にあるメチャコマナイ(骸骨沢)がその古戦場である。メチャコマナイとあ其故である。之は佐々木三之丞の話である。

 そのあと網走神社にお参り後、グーグルマップに掲載されている史跡を訪問しようとしたが見つからない。
 市役所は、「網走外三郡役所跡」で、旧網走支庁だった。

【説明板】
 明治13年(1880)北見国東部の開拓拠点として網走村が選ばれ網走、斜里、常呂、紋別の各部を統括する郡役所が開庁した。銅8年ここに庁舎を新築した後、北海道庁網走支庁舎となり最寄村に移転するまで開拓のための行政事務が執られた。

 市役所の近くの永専寺の山門は有形文化財だった。
【説明板】
 旧網走刑務所正門遺構として旧来の武家屋敷長屋門の形をとり中央扉口の櫛形アーチづくりドームの屋敷など洋風に意匠し和風と洋風の混交は独特である。
 創建は明治末期で明治初期の擬洋風建築の流れを受け継ぐ貴重な遺構であり、また本道行刑史上からも極めて貴重な建造物である。

 そのほかは史跡はみつからず、駐車場に走って帰った。
 
  
    
 
   
   
   
   
   
   
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