Toruトップ   >歴史    >マラニック
令和3年(2021)11月28日(日)

札幌市手稲区手稲本町(拳々服膺碑、牛馬塔、月山神社碑)
家〜西野〜宮丘公園(水準点)〜手稲富丘〜手稲〜手稲本町〜宮の沢
9時頃出発 13.3km 1時間52分
 
 快晴であり吉方の手稲方面に走る。今日の目的地は手稲中央小学校の拳々服膺碑と手稲神社の碑である。
 西野から宮丘公園に入ると水準点があった。全国に86ある一等基準水準点の1つで82番とある。
 宮丘公園からいつも通るラブホテル街を通り、国道5号線から1本山側の道を走り、手稲本町の手稲中央小学校の構内に「拳々服膺」碑があった。

【拳々服膺】
 碑面には大きく「拳々服膺」と刻まれており、碑の背面には「教育勅語 渙發五十周年記念 昭和十五年十月建と刻まれており、台座の右側面には、「寄附者 軽川老編奉仕会」と刻まれた石板がはめ込まれている。碑の脇には説明板が建てられており、「「拳々服膺」碑〈建立年 昭和15年(1940年)10月〉教育勅語発布50周年を記念し、子どもたちが一生懸命勉強し、知識を高めることを願って軽川老年奉仕会が建てたものです。天然石を学校の裏山から運び、拾い集めた台石の上にのせて、当時の校長が題字を書いて完成しました。この碑が建っている手稲中央小学校は、明治17年(1884年)に開進社という会社の事務所を校舎として改修し、15人の児童たちに授業したのが始まりとされています。当時は下手稲小学校と呼ばれていました。」と記されている。
 ちなみに、「拳々服膺」は「けんけんふくよう」と読み、その意味は「常に心にささげ持って忘れないこと。 人の教えや言葉を常に心にきざんで大事に守ることだという。「拳拳」はささげ持つこと。 「服」は身につけること、「膺」は胸の意味で、「服膺」は心にとめて忘れないことをいう。
 
 次に手稲神社に向かい、お参りしてから石碑を訪問する。

【牛馬塔】
 正面に「牛馬塔」と刻まれており、台座正面の寄附者芳名と題された金属板には、前田農場を筆頭に40の団体及び個人名が刻まれている。碑の背面には「昭和11年八月建設」と刻まれており、台座の背面には「前田農事組合解散にあたり原野拓きし先人の思いを伝え牛馬魂へ慰霊の誠を捧げ之を改修す 平成20年七月吉日」と刻まれた石板がはめ込まれている。手稲区のホームページによると、前田農事実行組合により新川神社境内に建てられていたが、昭和48年に新川神社が手稲神社に合祀された際、この碑も手稲神社境内に移された。

【月山神社碑】
 「月山」と「神社」の間に、右から「羽黒山」、「湯殿山」、「鳥海山」と並んで刻まれており、「大正六年五月三日 願主 千葉豊治」と添えらています。「出羽三山」と呼ばれる山岳信仰の大正となっている山は、「月山」、「羽黒山」、「湯殿山」での三峰で、いずれも山形県の県央部にあります。「鳥海山」は県北の秋田県との県境に位置しますが、これも古くから山岳信仰の対象とされている。
 碑の背面には、「碑誌 此の碑は 明治四十年四月父豊治渡道するに當り出羽三山大神に開拓の成功と家内安全を祈願して出発 後大正六年古郷の地岩手県陸中国西磐井郡老松村男沢 鎮座村社豊隆神社境内に建立せしを本年父の十三回忌を祈念して此の地に移す 維時 昭和五十一年五月十六日 (三名の氏名)建之」と刻まれている。
 
 
 
 
   
 
 
 
 
歴史に戻る