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令和4年(2022)3月19日(土)

神奈川県横浜市瀬谷区(武相国境・緑の森コース)
7時頃出発 4.5km 三ツ境駅→武相国境→中丸山古戦場→瀬谷市民の森→相沢古碑群→諏訪社→横穴古墳群→瀬谷駅前
 
 宿泊先の近くの瀬谷区に史蹟散策コースがあるので、走ってみることにする。走るにあたっては以下のサイトを参考にした。
 https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/sanpo/buso/corse02.html へのリンク

 三ツ境駅を出発して桜並木を走る。高級住宅街のようで、聖マリアンナ医科大学西部病院の当たりが武相国境だ。瀬谷高校の入口バス停で左折すると瀬谷市民の森に入る。北海道と違ってもう春で緑が濃い。森の中の東側の端に向かうと、中丸古戦場跡の説明板があった。

【中丸古戦場跡】説明板の概要
 享禄3年(1530)、川越(河越)の上杉朝興は小田原の北条氏綱に戦いを挑んだ。迎え撃つ小田原勢は初陣の16歳の新九郎氏康を大将として小沢原(川崎市麻生区金程付近)にて戦った。地元の伝承によると、瀬谷でも北条との戦いがあったと言い伝えられている。

 中丸古戦場を後にして、森の中をしばらく走る。北海道と違い熊がいないので安心だ。瀬谷の原という説明板があった。この辺は鎌倉時代からの歴史がある。

【瀬谷の原】説明板の概要
 (新田義貞の鎌倉攻め)
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は鎌倉幕府討伐のため上野国(群馬県)の新田庄生品神社に軍勢150騎で挙兵。東国各地の武将が加わり鎌倉幕府軍を破り、さらに南下。同月17日に相模国世野原で陸奥国石川義光が合流し、18日稲村崎を経て鎌倉に攻め込み。同月22日北条高時一族は東勝寺で自害、142年に亘る鎌倉幕府は滅亡。
(上杉禅秀の乱)
 室町時代の応永23年(1416年)10月2日前関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こした。緒戦は禅秀方の勝利となったが、その後幕府が持氏側救援を決定すると形成が逆転。応永24年(1417年)1月5日、駿河、越後の各守護が進撃を受け、武州瀬谷原において両軍の激しい合戦となった。同月9日禅秀は敗走し鎌倉雪の下に逃れ、翌10日一族が自害したため上杉禅秀の乱は3カ月余りで終了。
 藤沢市の遊行寺には両軍の戦没者を弔う「敵味方供養塔」がある。地名について、古文書により「相模国世野原」、「武州瀬谷原」とあることから、このあたりが相模国と武蔵国の国境付近に広がっていたと思われる。

 森を抜け、住宅地に入り、和泉川源流広場に到着。河畔沿いを散歩するための施設が整備されている。
 相沢小学校を過ぎる相沢古碑群があった。庚申塔が数多くあり、歴史を感じる。住宅地内をさらに進むと諏訪社が鎮座していた。平安時代からの言い伝えである。

【諏訪社】説明板の概要
 言い伝えによれば、平安時代の治承4年(1180)8月23日〜26日石橋山に兵を挙げ敗れた源頼朝は房総に逃れた。その後東国各地の兵力を集め、10月6日鎌倉入りする前夜、武蔵より相模に入り世野郷(瀬谷郷)の相辺沢の鎮守諏訪明神に一泊した。翌日郷士相辺沢六郎義氏らの先導で近隣の飯田家義とともに、俣野村で俣野五郎景久、大庭景親を破り鎌倉に入り武家政治の基を築いたと言われる。祭神は建御名方神。

 諏訪社から住宅街を進み、高台の崖沿いに横穴古墳跡があった。石碑が置かれ「八剣大明神」と彫られている。説明板がないと思ったが、坂を登ったところの長天寺のところにあった。

【瀬谷村役場跡・長天寺】
 長天寺は臨済宗建長寺派に属し、室町時代の応永元年(1394)2月15日宝林宗薫大和尚禅師によって開山、開基は平本六郎兵衛であると伝えられています。
 明治22年(1889年)5月27日の市町村制の公布によって、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置きました。この客殿は大正5年(1916)に新しい役場が建設されるまで使用され、3村が合併された際の初代村長は守屋兵輔でした。

【横穴古墳跡】
 明治39年(1906)3月、長天寺の北側に隣接したところで当地の平本彌太郎が農作業中に人骨3体、直刀及び鍔3点、金環2点、琥珀の棗玉3個、鉄轡1個を発掘。出土品から飛鳥時代・白鳳時代(604〜708)頃の相当高貴な人の墳墓と推定される。 
    
 
   
   
   
   
    
 
   
   
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