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令和4年(2022)3月19日(土)

むかわ町(鵡川盛土墳墓群、アイヌ碑、鵡川大漁地蔵尊、八王子千人同心追悼碑)
 約14km 2時間1分
 むかわ町道の駅→汐見地区→鵡川盛土墳墓群→鵡川大漁地蔵尊
 
 快晴予報のため、吉方の南東方面へ。今日はまだ訪問したことがない鵡川盛土集墓群と鵡川大領地蔵尊を再訪することにする。
 むかわ町道の駅に車を停めて、車で何回も通っている国道235号線を東にしばらく走り、汐見集落に向かう道に右折する。しばらく畑作地帯を走る。途中「チン川左岸3遺跡」の標柱を見つけた。3km程走り、旧汐見駅をすぎると汐見集落に到着。神社にお参りして道を右折してむかわ町の中心街に戻る道を走る。今は廃線となったが、日高線を渡ってすぐの海岸段丘のところに「トン二トイ遺跡」の標柱とトーチカがあった。
 道をしばらく北上し、盛土集墓群を探すがなかなかわからない。左手にゴミが散乱している向こうに海岸段丘が見えたので行って見るが違うようだ。スマホの地図で盛土集墓群を検索すると位置情報が登録されており、もう数百メートル北側に盛土集墓群があった。
 集墓群は河岸段丘上にあり、登って見ると周囲を見渡せる風景がよいところにあった。説明板にある周溝や墓穴はよくわからなかった。 

【鵡川盛土墳墓群】文化財オンラインより転載
・盛土墳墓群は、鵡川駅南東約2.5キロメートルの地点に位置し、鵡川左岸の標高およそ10メートルの段丘上に所在しています。
・本遺跡は、昭和38年(1963)4月に調査が行われた結果、円形の盛土墳墓群で、盛土は直径7〜10メートル、高さ約1メートルの円形の輪郭に巾85センチメートル、深さ60〜80センチメートルの周溝をめぐらしており、墳墓内には整然と配列した墓穴のあることがわかりました(第1号墳墓では6ヵ所)。
・墓穴の大きさは直径60センチメートル〜1メートル、深さ30〜50センチメートル前後で副葬品として土器、石器、装身具が出土しています。
・年代は続縄文時代と思われます。縄文時代から次の時代に移行する年代の葬制研究には重要な意義があります。
・円形盛土墳墓は本地に群存するほか、近隣地帯にも存在するものと思われますが、今のところ、むかわ町ではここ以外では発見されていません。

 墳墓群をあとにして、少し北に走ると国道235号線に突き当り、鵡川大漁地蔵尊に到着。ここは以前にも訪問しているが、レポートはしてなかったので、今回転記させていただく。

【アイヌ碑】
 北海道は豊富な資源に恵まれたアイヌモシリであった。アイヌはこの地で漁撈、狩猟などによる平和な生活を営み、すばらしい生活文化や文学、芸術を生み出してきた。15世紀に入ると、和人がアイヌモシリ南端に住むようになり、初めは数も少なく、アイヌと力を合わせて仲良く生活が営まれていた。しかし16世紀入り、本州との交易がさかんになるなるにつれアイヌが大切にしていた資源の略奪が激しくなり、次第にアイヌの不満がつのり再三にわたって闘争がくり返された。1669年のシャクシャインの戦に敗れたアイヌは、以来松前藩の政策下で窮乏と苦難の歴史が続いた。当時の穂別は、雪も少なく水の清い川には、さけやますが群れをなしてのぼり、鹿は地上を黄色くなるほど生息していたといわれ自然に恵まれたコタンであった。一方明治の初期頃より政府の手による北海道の開拓が進められるに伴い穂別にも和人が鹿道を通って入地した。しかしながらその不安と困難は筆舌につくし難いものがあった。われわれの先祖は和人に多くの支援と利便を供与し、風俗習慣を異にしながらも共に地と汗の斧をふるったのである。今日の穂別町の繁栄とその基礎作りに果たした先駆者アイヌの功績は燦然と輝く。1982年7月 開町70年町政施行20年記念にあたりその苦難の歴史をしのび、これを讃え後世の碑とする。

【鵡川大漁地蔵尊の由緒】
 本堂の御本尊は立ち姿で総丈四尺三寸円空上人の作と伝えられている。文政八年五月鵡川村大字チンに住むエカシのシゲアンクルが入鹿別浜で拾い苫小牧勇払浜に奉祀した。明治二十三年同村トミルカの宅地に遷座その後二度の奉遷を経て開拓草創期の同35年八月有志相はかり宮戸108番地に堂宇を創建大正六年八月信者と女人講が協力し現在の聖地に新地蔵堂を建立昭和14年増築し昭和46年増築し現堂宇となる。・・・。

 地蔵堂の奥に八王子千人同心の碑があった。

【誌】
 いまから184年前 半士半農の八王子千人同心 原新助(地役)外49人が幕府の命を受け鵡川地の警備と農漁業の開拓のため寛政12年入地せり
 享和2年には地役 市川彦太夫と交代この地を支配せりとあり。これが鵡川における開拓の先駆者と思われる。
 同心の方々は異なる気候風土と更には食糧の不足と寒さなどの労苦により文化5年(入地以来8年)には鵡川作地場と放棄せり云々と記録がある。
 この8年間鵡川の地において開拓のため死を以て殉じられた7人の同心の霊に対し謹んで追悼の意を表しその遺跡を永く攻勢に伝承すべく建立する。 合掌
 1985年8月

 中々むかわ町の地も歴史に溢れていると感じ、車に帰る。しかし今日は久々に夏シューズで10km以上走ったので、疲れた。
 
 
 
   
   
   
   
   
   
 
 
 
 
 
   
   
 
   
   
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