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令和4年(2022)8月6日(土) 

 和寒町(役場)〜国道の西側の町道・道道等〜塩狩駅・塩狩峠〜国道40号線〜三笠公園〜役場

22.5km 3時間25分

 和寒町を初めて散策ランニング。いつも田舎の町に来たら役場や道の駅に車を停めるが、今回は役場に停めて走り始める。まずは、和寒神社にお参り。御由緒の概要は次のとおり。

【和寒神社】
 和寒は「楡の木の傍ら」を意味するアイヌ語の「ワットサム」が由来。和寒神社は開拓間もない明治36年信仰篤い開拓の先人一人が楡の木の切り株に祠を建て春日大社大神を祀ったのが創始。そして明治38年和寒小学校の一隅にお社を建て八幡神社を名づけてお祭りを行った。・・・。

 和寒神社も古い、そして、その隣の忠魂碑も立派だ。和寒の街の中から国道の一本西側の道を南下する。三笠公園の中を通り、中和地区、南ヶ丘地区の田園地帯の道路を走っていく。中和地区の交差点には、地神五社と山神の碑があった。そして夫婦岩と塩狩峠につながる町道を走っていく。森の中の道路であり車も通らず、熊が心配だが、夫婦岩に行く道路のところに鐘が2カ所あり鳴らして走る。約12km走って塩狩峠に到着。

 今日の主要な目的地は塩狩峠。あの三浦綾子の「塩狩峠」である。大学時代に読んで感動したが、その舞台を走って訪問することができた。三浦綾子が住んでいた家は記念館になっているが、10時からの開店だったので諦め塩狩駅などを散策する。そして小説「塩狩峠」の主人公の長野政雄氏殉職の碑があった。

【永野政雄氏殉職の碑】
 明治42年2月28日夜、塩狩峠に於て最後尾の客車、突如連結から分離、逆降暴走す、乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。特に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ。」右はその一節なり。三十才なりき。

 もう少し国道を下っていくと江戸末期の探検家、近藤重蔵ゆかりの地碑を発見。これは事前の調査でもわからず、走ってみて初めて発見できたものである。これだから散策ランニングはやめられない。

【近藤重蔵ゆかりの地】碑の説明板
 近藤重蔵は文化四年八月九日函館を発して海岸添を来たが、海が荒れて利尻には渡れず抜海宗谷で実情を調査して天塩川をさかのぼり、この地に野宿し、死亡した従者をここに埋葬して上川入りをし、比布の棚瀬に出た。昭和三年九月砂利採取の折りここから日本刀一振り掘り出したので近藤重蔵ゆかりの地として永久に保存したい。佐藤二

 国道をさらに町の中心部に向かい、第二の目的地の三笠公園に向かう。道路を登っていくと馬頭観音の列があった。これほど馬頭観音が並んでいるのは初めて見る。昭和60年に町内にあった馬頭観音を集めたそうだ。
 さらに上に行くと、「開拓先人守護の塔」があった。ここには和寒町の発展に貢献した人々の名が刻まれている。
 その後、小さな遊園地を通って、結構怖い吊り橋を渡り、登っていくと巨大な「恵水碑」が鎮座していた。

【恵水碑】の説明碑
 天塩川水系土地改良区連合は当初、天塩川、士別川、士別、上士別の天塩川右岸の四土地改良区が天塩川上流に補水を主とするダムを建設 これが維持管理を目的とし土地改良区連合を設立し、昭和28年7月に北海道知事の認可。その後開発計画に剣和地区を加え、総合的な大規模計画に変わり、昭和32年3月剣淵、和寒両土地改良区を加え、現在の土地改良連合になった。総合かんがい排水事業天塩川上流地区として昭和42年に着手し、18年の歳月と事業費310億円を投じ昭和58年に完了。
 天塩川上流部と剣淵川沿いの耕地、かんがい排水の基幹施設を整備。水田11620haの用水補給と原野3470haを開拓・・・。後は読み切れませんでした。
 
  
   
   
 
   
   
   
   
   
   
 
 
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