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令和4年(2022)11月6日(日)  当麻山293m

 当麻町(道の駅とうま〜旧神社跡〜当麻神社〜屯田開拓公園〜当麻山)

約15km 2時間21分

 吉方の北東の中で旭川周辺で訪問したいことがない当麻町を訪問する。道の駅とうまに車を停めて、まずは旧神社跡に走って向かう。田んぼの中に森が茂っているのが見えて、3kmほどで旧神社跡に到着。当麻町の屯田兵開拓はこの地から始まったのだ。この森の中には、すでに社はなくなっているが、西兵村の三輪中隊長顕徳碑、西兵村記念碑、史跡當麻神社跡碑などが建てられており、当時の名残が残っている。

【当麻町指定文化財 旧当麻神社跡丘陵地 説明板概略】
 この地は明治26年5月10日、永山村字トウマ(当時)に屯田兵の第一陣が入植した所で、ここから開拓が始まった。屯田兵たちの心の拠り所にするため、この丘陵地の頂上に「當麻神社」と命名した一尺角の標木を建てた。この地は当時、永山、旭川に行く要路で、カシワ、ナラなどの古木が鬱蒼と茂り、周囲には沼地があるなど神域としてふさわしいとおろだった。(以下、略)。

 旧神社跡を訪問し、また田んぼの中を通って当麻町の街の中に行く。真新しい郷土資料館があり、屯田百年記念碑と屯田兵の像が建てられていた。百年記念碑は文字が消えていてよくわからないが、顕彰碑には、明治26年5月に全国16県から約400名の若者が屯田兵として入植し、兵農を両全、開拓の実を上げ、明治41年屯田兵廃止に際し、公有地1千町歩を村の基本財産として寄附し、その家族を併せた2193名の言語を絶する労苦血汗が郷土繁栄の基になったと記されていた。

 その後、当麻駅を通って当麻神社を訪問する。巨大な鳥居を通って、階段を昇ると巨大で立派な忠魂碑があり、左手に神社が鎮座していた。

 由来は、以下ホームページから転載。

【当麻神社】
 明治26年全国19の県より屯田兵400戸が入植す。當麻神社の御創祀は屯田古文書によると明治27年5月西兵村の丘陵地を神社地と定め、東西両中隊屯田兵50名づつを集め社地の地ならしに従事、5月5日丘上に「當麻神社」と命名した標木を建立し、標木は1尺角のもので天照皇大神、春日大神を合祀し、後に八幡大神を増祀した。祭日を移住の中日である5月15日と定め移住記念祭を執り行ったのが當麻神社の御創祀の日であり例祭の始りであった。明治29年社殿を造営、屯田兵大森政太郎の父大森仍央が神職として奉仕、明治41年公認神社となった。

 神社を後にし、開拓記念公園に向かう。公園には「開拓記念碑」があり、北海道庁長官池田清謹書と書かれ、裏面には漢字がびっしり書かれている。そして開拓記念碑の隣には、開拓の像の碑があった。

 公園をあとにし、当麻スポーツランドを通り、当麻山に向かう。登山道は遊歩道になっていて道が整備されている。登山口には説明板があった。

【当麻山】
 昔、アイヌの人は、この山をトコン山(神山)と呼び崇敬していたが、明治26年屯田兵設置にあたり、兵屋の建築のため樺戸集治監に収容されている囚人を使役従事させるため、現在の当麻川堤付近に樺戸集治監永山分監と称する仮小屋があったため、当時の屯田兵並びに家族達はこの山を「監獄山」と呼ぶようになり、これが通称となっていた。

 頂上には展望台が設置され、旭川の街並みなど旭川平野が一望できた。そして二等三角点もせっちされており、そこにタッチし下山し、道の駅に走って戻る。
 
   
  
 
 
   
   
   
   
   
   
   
 
 
 
 
  
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