Toruトップ   >歴史    >マラニック   
令和5年(2023)3月10日(金) 

 新川崎駅〜加瀬台古墳群

約2km 約22分

 東京出張中。前日の侍ジャパンを酒を飲みながら楽しんでしまい二日酔いだが、当初の訪問地である加瀬台古墳群へ。宿泊地の品川から横須賀線に乗って新川崎駅へ。
 駅から、加瀬台古墳群が見える。駅から日吉訪問にしばらく走ると、加瀬台古墳群の高台に。この辺の地名は夢見ヶ崎というそうだ。登り坂を登っていくと太田道灌の説明板があった。写真はぼけてしまい転載しないが、この地は太田道灌が築城する場所を探しに訪問した地だそうだ。

【説明板:加瀬山は歴史の宝庫】概要
 縄文時代の南加瀬貝塚が存在。現在でも6基の古墳が残っている。小田原北条氏四代目氏政が社殿を造営したとされている天照大神、五代目氏直が創建したと伝えられている熊野神社などが存在。

【山吹の花と加瀬山】概要
 太田道灌がにわか雨に困り、武蔵野の家で笠を借りようとしたところ、家の娘が山吹の花を差し出した。娘は「七重八重、花は咲けど山吹の 実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌にかけて、貸すべき蓑がないことを奥ゆかしく表現した。そのことを後で知った道灌は、古歌をしらなかったことを恥じて、以降勉学に励んだという。

【白山古墳・秋草文壷】概要
 古墳前期の4世紀後半に築造された前方後円墳。近畿地方の勢力との関係を示すものとされている。昭和12年に慶応義塾大学によって発掘。後円部下方から秋草文壷が出土。火葬した骨を納める蔵骨器として使用。

 その後、坂道沿いに説明板が続き、動物公園の横に熊野神社があり参拝。高台沿いに歩いていくとラジオ体操をやっている広場があり、その奥に円墳と見られるものがあった。その前に太田道灌の碑、加瀬台古墳群のマップ、加瀬台古墳群の説明板があった。

【太田道灌公碑】
 此の地加瀬山にて江戸城を築かんと思案するが完成を見ず

【加瀬台古墳群】
 多摩川低地への突き出した夢見ヶ崎の細長い丘陵(通称「加瀬山」)には、加瀬台古墳群があり、隠滅したものを含め11基の古墳が確認されています。その中でも白山古墳は、4世紀後半に築造された、川崎市内最大となる全長87mの前方後円墳、本古墳群の中で最古と考えられている。後円部から発見された三角縁神獣鏡は、初期の大和政権からこの古墳の被葬者に分け与えられたと考えられる。
 白山古墳の西隣には、7世紀の第六天古墳が位置。墳丘径19mの円墳で、横穴式石室から勾玉、金銅製鈴等の副葬品とともに11体もの人骨が発見。両古墳とも昭和12年に慶応技術大学によって発掘後、開発によって削られた。このほか、夢見が崎動物公園周辺には加瀬台3号墳や、中国鏡と鉄斧等が出土した4号墳、方墳の8号墳、9号墳など7基の古墳が現存している。
 
 その後、現存している加瀬台9号墳とみられる円墳の上に登る。小さな社があった。帰りにラジオ体操をしていたところにもどると、説明板があり、その辺の広場が、巨大な前方後円墳の白山古墳、円形古墳の加瀬台7号墳だということがわかった。

 思いもかけず、史跡を訪問でき、電車で宿に戻る。
   
 
   
 
   
   
 
   
   
 
 
歴史に戻る