Toruトップ   >歴史    >マラニック  
令和5年(2023)7月14日(金) 

幕別町札内〜帯広神社、依田勉三の碑 往復

約5.2km 46分

 ただ走るだけでは面白くない。今日も史跡を訪ねるランニング。
 
 本日午後お休みを取って、帯広市へ。飲み会の前に史跡訪問ランニング。

【帯廣神社】
 由緒。明治43年この地に仮殿を御造営。札幌神社より神霊を請けて鎮座。昭和4年県社に昇格。

【神社内馬の碑】
 (表面)市制記念 奉献 北海道庁長官 佐上信一謹書
 (裏面)禁酒禁煙満拾箇年満了ヲ記念シ奉献之 昭和八年四月一日
     帯廣市 みつわや 中島武市 三十八歳 出生地 美濃国土貴野村

【中島公園の由来】説明板
 昭和17年開設 1.8ha 
 公園の中央に帯広開拓の礎を築いた依田勉三の銅像が建っています。勉三率いる晩成社は、明治16年(1883)年に北海道へ入植し、十勝の大地にフロンティア精神を残しました。
 銅像は中島武市により建造されたものです。中島氏は帯広商工会議所会頭や市議会議長などの要職・公職を歴任された方です。
 中島氏は依田勉三の功績を後世に伝えるため、銅像だけでなく、中島公園の土地を含めて帯広市に寄附しました。その篤志を称えて、当時の帯広市長が中島氏の名を公園名にしたのが由来です。

【依田勉三銅像】
碑文(台座裏1) 功業不磨 咢堂題 依田勉三君ハ伊豆ノ人夙ニ北地開墾ノ志アリ明 治十五年晩成社ヲ組織シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地 ニ移住ス凶歳相次キ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈 撓セス移民ヲ慰撫激勵シテ原野ノ開拓ニ努メ更 ニ水田ヲ闢キ酪農事業ヲ興シ諸種ノ製造工業ヲ 試ムル等十勝國開發ノ翹楚トシテ克ク其範ヲ示 ス十勝國ノ今日在ルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ岐 阜縣人中島武市此ノ勞效ヲ欽仰シ私財ヲ投シテ 之ヲ永遠ニ讚ヘントス誠ニ宜ナリト言フヘシ
紀元二千六百年二月十一日建立 題字正二位勲一等 男爵一木喜徳郎   篆額 正三位勲一等 尾崎行雄   撰文 従二位勲一等 男爵 佐藤昌介  書字 帯廣市長正六位勲五等 渡部守治   銅像製作 東京市 田嶼碩朗   建設 帯廣市 中島武市

碑文(台座2) 賛辞 本日ここに十勝開拓の先人 依田勉三君の銅像除幕式が 擧行せらる誠に慶賀にたえ ざるなり君の十勝開拓に志すや 終始一貫堂々としてたゆまず あらゆる困苦欠乏にたえ初志の 貫徹に邁進すること四十有五年 今日十勝平野開發の基礎を 確立せるは洵に敬仰にたえず 今や食糧の生産確保に益々 飛躍進展を希求せらるる時機に 際し君が本道開拓の先覺としての 偉業を偲びその功績を永く後世に傳えんがため十勝商工會連合 會頭中島武市君獨力で銅像の 建立をはかりここに建設をみたるは 蓋し機宜を得たるものというべく 世道人心の作興に資するところ 少なからざるべし 昭和十六年六月二十二日 農林大臣井野碩也

【徳光浩碑】
 依田勉三翁は十勝国開拓の恩人たり即ち 明治十六年晩成社を司宰し郷里伊豆の国 より同志数十人を率ひ十勝原野に来住 千辛万苦幾多の凶荒に遭ふも屈撓せず遂 に農業十勝興隆の基礎を築きたり 中島 武市氏は夙に翁の功徳を敬慕し昭和十六 年独力よく晩成社開拓の地を卜して公園 を造成 翁の銅像を建設し 以て功績を 永く後世に伝えんとせり 然るに所謂大 東亜戦争熾烈となるや 銅像また之が犠 牲となり撤去せらる 時に昭和十八年十 二月八日なり 爾来春風秋雨実に七ヶ年 平和の春蘇り来れりと雖 放置されて顧 みられず我等深く遺憾とし昭和二十五 年七月再建期成会を結成し債権の計画を 樹つるや翕然として大方諸彦の賛同を得 ていま再び翁の偉容に接する感激措く能は ざるなり 茲に銅像の再建を記念し併せ て本事業に参画せられた篤行の士を銘す 昭和二十五年文化の日 依田勉三翁銅像再建期成會長 帯広市長 佐藤亀太郎

  
   
   
   
   
   
歴史に戻る