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筑波山(男体山m870、女体山877m)   100名山

平成22年11月3日(水・文化の日)・単独

家0459→本郷台→(JR線)→大船→(JR)→秋葉原→(筑波エクスプレス)→つくば駅0720→(バス)→筑波山口0830→(自転車)→小田城0910→筑波道0930→筑波山口0950→(以降、ランニング)→男体山10:23→女体山11:40→筑波山神社12:30

 祝日で、カミサンの許しも得たので、どこかに行くことに。東海道53次の続きは遠いのと、天気も良いので、新たな方面として筑波山を走ることに。
朝、4:59本郷台発、秋葉原でつくばエキスプレスに乗り換え7:10につくばに到着筑波山神社行きは8時発でまだ時間があるので、それよりも少し早い7:50発の筑波山口行きに乗る。その近くには、八幡塚古墳もある。8時近くなってきたら、登山客がうじゃうじゃ出てきた。最近、ブームで猫も杓子も登山である。

筑波駅周辺
筑波山に向かう。学園都市だけあって綺麗だ
八幡塚古墳。いい写真があったので拝借
<以下、ネット>
築造時期は、出土した埴輪や墳丘の形状から、六世紀前半ころと見られています。とりあえず成務朝の人物が被葬者ということはなさそうです。

墳丘の東側には、周堀のなごりと見られる池があります。
ここから人物埴輪が出土しました。

バス停に戻って登ろうとするが、りんりんロードなるサイクリングロードがあり、レンタサイクルもあるのではないか?断念しかけていた全国のみち百選のつくば道と山から少し南の小田城跡を自転車でみにいくこととする。
自転車は田園地帯を走る。田んぼには北海道米のライバル、恐らくイバラキのコシヒカリのひこばえが育っている。まだ稲刈りしていない田んぼもある。北海道の稲作とは気候の関係で大分違うと感じる。
小田城跡に到着。また、何てことはない、土盛りの上に石があるだけ。(以下、ネット)

下野守護の宇都宮氏の一族の八田氏が鎌倉初期に常陸守護職につき、小田城を本拠地とし、建久四(1193)年には旧勢力の多気氏を失脚させ、安定した基盤いた。 四代時氏から、地名に因み小田氏を称した。
延元三(暦応一・1338)年、南朝方の北畠顕家が戦死した後、その父・北畠親房は伊勢から船で東国に向かい、海上で大風に遭って常陸東条浦に着岸、はじめ神宮寺城を拠点としたが形勢が思わしくなく、阿波崎城を経て常陸の有力勢力であった小田治久を頼り小田城に入城、以後、東国における南朝方の中心拠点となった。
延元四(1339)年、後醍醐天皇が崩御し新帝後村上天皇が即位すると、新帝に献上するため親房は「神皇正統記」をこの小田城で著した。暦応四(興国六・1341)年六月、北朝の高師冬が宝篋山に陣取って小田城を攻めたが落城せず、十一月、師冬は懐柔策により和議開城させた。親房は開城直前に常陸関城に移って抗戦した。師冬は小田治久との和議の後、北朝軍の優勢をバックに和議条件を破棄し、小田氏の官位・守護職・所領は常陸の佐竹氏に与えられ、小田氏の勢力は衰えた。
康暦二(1380)年に勃発した「小山義政の乱」では、小田孝朝は足利関東公方・氏満に従っていたが、小山義政の没後、義政の子・若犬丸が反乱を起こし、一時祇園城に立て籠もったがその後逃亡、嘉慶元(元中四・1387)年五月、小田孝朝に小田城で庇護されている事が発覚した。七月十九日、氏満は上杉朝宗を大将に小田城を攻め、孝朝は降伏したがその子治朝・小田五郎らが若犬丸を匿って常陸難台山城に籠城、八ヶ月の攻防の後、難台山城は落城し、若犬丸は逃亡、治朝は那須資之に預けられた。小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にした。
戦国期、小田氏治は越後長尾(上杉)氏・佐竹氏らと結び北条氏と結んでいた結城氏・多賀谷氏らと対抗した。弘治二年(1556)、北条氏康は下総結城城の結城政勝の援軍として江戸城代の遠山・富永、岩槻城の太田資正らを結城城に派遣、関宿城の簗田氏や下野の壬生氏、那須氏、奥州白河結城氏らが結城連合軍に加わって、海老ヶ島城を攻撃したのを契機に小田氏治が出陣、山王堂付近で激突したが結城連合軍が優勢で、氏治は敗走し、小田城も陥とされ家臣の菅谷氏の守る常陸土浦城まで撤退した(第一次山王堂合戦・海老ヶ島合戦)。謙信の関東出陣後はこれに従い転戦したが、小田氏治はその後、北条氏の調略に応じて謙信に叛いた。永禄七(1564)年、上州厩橋城に駐屯していた謙信は寝返った氏治を討つべく山王堂付近に進軍、越後・佐竹連合軍との間に合戦となり、氏治は再び敗走し小田城に籠城したがこれも陥とされ、土浦城に退いた(第二次山王堂合戦)。
永禄十二(1569)年、北条によって岩槻城を追われ、佐竹義重に庇護されていた、片野城主・太田三楽斎資正と柿岡城主・梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、またしても氏治は小田城を追われ、その後復帰することはなかった(手這坂合戦)。小田城には梶原政景が城代として置かれ、土浦城木田余城に逃亡した小田氏を追い詰めていたが、天正六(1578)年、土浦城に逃れていた氏治は佐竹義重に子を人質にさし出し降伏した。その後、天正十二(1584)年に小田城代の梶原政景が北条に内通し、佐竹義重に攻められたという。
慶長五(1600)年には佐竹氏の配下の小場義成が城主に任じられたが、慶長七(1602)年、佐竹義宣は関ヶ原合戦での去就を徳川家康に咎められ、秋田に転封になると同時に小田城は廃城となった。
小田城を見て戻る。カントリーエレベーター 柿の向こうに筑波山
つくば道。日本の道100選だという。古い家並み。
真言宗のお寺、1300年代からある古いお寺
筑波山神社。立派で古い。関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきたそうな。3,000年とか。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。
最初は、木の根っこばかりの緩い坂道 古い碑もある
次第に岩が多くなり、人も混んできた 水も涌いている
男体山頂上、関東平野が一望。90分のところ、一時間で男体山に到着。最後の登りはケーブルカーの客、皮靴の親父などもくわわり、混雑さがさらに増し、渋滞となった。頂上も大混雑であったが、景色は大絶景、関東平野が一望でき、栃木、群馬の山々も遠望できた。
男体山から女体山に行く途中のコル、ケーブルカー乗り場。民謡は歌っているわ、売店も乱立
女体山(降りる途中も)奇岩が沢山
女体山、ここが最高峰。人が多いので、さっさと退散し、下ることに。しかし、ここで混雑の極致に、何と幼稚園らしき御一行様に当たってしまった。道はふさがれるは、登るのは遅いはで散々またされたのである。この辺には、珍しい巨岩が多いのだが、イライラしてゆっくり観察会する余裕がなかった
 筑波山江戸屋という旅館の風呂に入る。透明で綺麗な御風呂でさっぱりした。一つ残念なのは、筑波名物、つくばうどんをバスの時間の関係もあり食べられなかった。

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