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鷹取山(139m)

平成22年11月13日(土)・単独

田浦駅0839→鷹取山1004→神武寺1020→神武寺駅1045

 昨日、仕事でむしゃくしゃして少し二日酔いなのと、明日、陣馬山のトレイルラン大会があるので、比較的軽く、近い山に行くことにした。かながわのハイキングコースベスト50に載っていた鷹取山に行くことに。
 JR横須賀線で田浦駅に向い、そこから走る。
このへんには、自衛隊の病院や海上自衛隊技術学校がある。

 船越トンネルをくぐる手前には景徳寺という寺院があり、その向かい側の高台に船越神社は鎮座している。ここも古いな。 

<以下、ネット>

 景徳寺は臨済宗円覚寺派、観応二年(1351年)の創建といい、開山は夢窓国師の侍者を勤め、後光厳天皇の帰依も受けたという勅諡仏観禅師。本尊十一面観音はかつて現船越神社鎮座地の高台にあった宝珠庵の本尊であった。この観音さまは昔々船に乗せられて船越の入り江に流れて来られたといい、それが船越の地名の由来とされている。明治二十年代に景徳寺本堂に移られたといい、現在は三浦観音二十一番札所のご本尊でもある。

 船越神社はこの宝珠庵の守護神社として、足利義満の頃の応安二年(1368年)十月九日に和歌山県新宮市の熊野速玉大社の祭神速玉之男命を勧請した熊野社が前身である。『新編相模風土記稿』(天保五年頃)には「熊野社 村の鎮守なり、例祭九月十九日、景徳寺持ち」とあり、江戸時代まで熊野社の管理は景徳寺が行っていたが、明治三年(1870)神仏分離令により景徳寺から分離している。昭和三年になって日枝神社を合併、昭和九年に船越神社と改称した。

 合併した日枝神社は寛文年間(1661〜1673)に船越を開拓した武州久良岐郡金澤の永島祐伯の子孫(代々段右衛門を襲名)が、文政年間(1818〜1830)に江戸麹町の日枝神社大山咋命の御分霊を奉遷して創立したものという。船越の地は永島一族が開拓した土地だが、地震や大水、津波などの災厄に度々罹りその都度荒廃した。それを嘆いた永島家九世段右衛門忠篤が祐伯の開いた金沢泥亀新田を初めとした新田の復興を行ったうえ、当所にも復興も企て、海面に波除の防堤八十二間を築いた。復興に深く神助を感じた忠篤は、明治四年この防堤の突端に日枝大神を奉遷、土地開発鎮護の神社としたものという。

狭い住宅街の道を行くと階段が見えてきた
山にはいると、尾根沿いに舗装されている。北海道ではあり得ない。住宅街が見える。浜見台15分という看板があったので行ってみたが、何もなく、ここで往復20分程度ロス。
鷹取山が見えてきた。尾根沿いをぐるっと回る。 あっと言う間に鷹取山に到着。ロッククライミングをしている。よくやるな。
その後、近くの摩崖仏を見に行くが、大きなスズメバチがいたので、早々に退散。 山頂に向かう
頂上に到着。
 神武寺、ここも古い、以下、ネット

医王山来迎院神武寺は天台宗,鷹取山登山道の中途に建てられています。古くは,鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」にも源実朝が参拝したことが書かれています。関東でも比較的由緒の古い名刹であり,自然環境もよく保たれ山岳寺院の面影をとどめています。しかしながら,たびたびの火災により文書等が消失して明確な寺史を知ることは困難です。
 文禄3年(1594)の奥書のある相模国三浦郡神武寺縁起には,神亀元年(724)甲子正月十二日の夜,聖武天皇が霊夢をみて,命を受けた行基が沼間までやってきて山にこもり一刀三礼で十一面観音・釈迦如来・薬師如来像を彫刻し,それをまつったのがおこりだと書かれています。奈良時代には,今の逗子市全域は鎌倉郡沼浜郷と呼ばれていました。この郷の名前は天平勝宝元年(749)の正倉院御物古裂銘に「相模國鎌倉郡沼濱郷戸主大伴部廣麻呂…」と記されたものが残されています。奈良時代にすでにこの辺りが開発されて人が住んでいた事がうかがえる資料です。
本堂は薬師堂で,室町末期の様式を持つ建築です。神奈川県の重要文化財にも指定されています堂内の厨子には薬師如来座像・日光菩薩立像・月光菩薩立像が納められ,他に十二神将像が祀られています

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