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大野山(723m) 

平成22年12月4日(土)・単独

山北駅0942→河村城1000→大野山1142→山北駅1251

 昨日は飲みに行って少し寝坊をしたため、近場のトレランコースの大野山へ。東海道線の国府津で御殿場線に乗り換え、山北駅へ。先週も丹沢マラソンで来た同じ路線だ。天気は昨日は大荒れであったが、今日は一転して快晴。
 
 山北駅で降りて、河村城跡に向かう。 この城の歴史は平安時代にさかのぼるとか。古い。以下ネット

 平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の次男・河村秀高によって築かれたと伝承されるが、これは山麓の居館を指すのであろう.。秀高の子、義秀の代に源平の騒乱が勃発、河村氏は平氏に属したため、鎌倉幕府により一時所領を没収された。しかし建久元(1190)年、鎌倉の鶴岡八幡宮での流鏑馬で義秀は技量を頼朝に認められ、本領河村郷に復帰を許され、さらに文治五(1189)年には奥州平定で義秀の弟・四郎秀清が軍功を立てて奥州岩手・志和・名取に所領を得た。

 南北朝争乱期の文和元(1352)年、河村一族は新田義興、脇屋義治の軍勢四千騎とともに河村城に立て籠り、畠山国清を総大将とする足利尊氏の北朝軍と足掛け二年に渡る籠城戦を闘った。しかし、翌文和二(1353)年三月、南岸の合戦で南朝軍は惨敗、河村秀国、秀経をはじめ一族のほとんどは討ち死にし、新田義興は越後に逃れた。

 永享十(1438)年に勃発した「永享の乱」では、長尾実景、大石重仲が、鎌倉公方足利持氏と将軍足利義持の朝廷に奔走したが、持氏との関係が悪化した関東管領・上杉憲実に対し、河村城への避難を勧めている。憲実は結局上州平井城に向かい、河村城は持氏に味方する大森伊豆守憲顕によって攻め陥とされた。

 明応四(1495)年頃、伊豆韮山城を居城としていた伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城の大森藤頼を急襲し小田原城を奪取してからは、北条氏の属城となったと考えられる。

 永禄十一(1568)年、甲相駿三国同盟が崩壊し、翌永禄十二(1569)年には小田原城が武田信玄の包囲を受ける。また、元亀元(1570)年には駿河深沢城をめぐる対立が発生すると、国境にあたる河村城は大規模な改修を受け、甲斐武田氏の侵攻に備えた。

 天正十八(1590)年の小田原の役では守備兵を配置していたであろうが、河村城の戦闘を伝える史料はない。河村城が廃された後は、江戸期には関所が設けられ、人馬の往来の規制を受けた。

歴史のある石碑がある。天守跡までは、かなり急な登りだ。
天守台跡。
富士山が片側見える。 山北市街。この後、大野山に向かう。
トンネル手前。ここは江戸時代、関所だったそうだ。 東名高速の下をくぐる
こんな所にボクシングジムが。日本で一番山の中のボクシングジムだそうだ。創設者が石原さんとある。
舗装道路をドンドン上る。熊注意の看板も 延命水。うまかった。
山の中腹に集落が。よく住んでいるな 鹿を買っている。
紅葉の赤、黄色、葉の緑、青空のコントラストが素晴らしい 公共牧場が見えてきた
公共牧場、県立だ。
頂上、以下、パノラマです。
愛鷹山
箱根神山など
小田原方面と海
丹沢主力山塊
富士山、素晴らしい
丹沢湖
西丹沢山塊?
花が狂い咲きしていました
帰りの道 山北駅近くの赤と白の綺麗な花

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