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明神ヶ岳(1,169.1m)

平成23年10月1日(土)単独

 8:10 道了尊バス停
 8:50 登山口
 9:25 見晴小屋
10:30 明神ヶ岳頂上
11:05 頂上発
12:50 塚原駅

 明神ヶ岳は、昨年金時山から縦走したのだが、今日は、大雄山線沿いの最乗寺側から登ることに。そして、帰りは二宮金次郎芝刈り路を下った。しかし、仕事のメールが来て、落ち着いて登れなかったな。
駅前は結構、繁華街
最勝寺の山門
<以下、ネットより拝借>
大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4千余りの門流をもつ寺である。
御本尊は釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ脇侍仏わきじぶつとして文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏こくどあんのん万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。
開創以来6百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。
開山了庵慧明禅師りょうあんえみょうぜんじは、相模国大住郡糟谷さがみのくにおおすみごおりかすやの庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。
長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉不聞禅師ふもんぜんじに就いて出家、能登總持寺そうじじ峨山禅師がさんぜんじに参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師ようたくじつうげんぜんじの大法を相続した。
その後永沢寺、近江總寧寺おおみそうねいじ越前龍泉寺えちぜんりゅうせんじ能登妙高庵寺のとみょうこうあんじ、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。
50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に竺?庵ちくどあんを結んだ。そのある日、1羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(1394年)3月10日のことである。大雄山最乗寺の守護道了大薩?は、修験道の満位の行者相模房道了尊者ぎょうじゃさがみぼうどうりょうそんじゃとして世に知られる。
尊者はさきに聖護院門跡覚増法しょうごいんもんぜきかくぞうほう親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約1年にしてこの大事業を完遂した。その力量は1人にして5百人に及び霊験は極めて多い。
奥の院。階段が凄かった 大下駄
見晴小屋。                      大山が見えてきた
神明水。冷たい 小田原市内も見えてきた
海も見えてきた 明神ヶ岳頂上
駒ヶ岳と大涌谷、強羅の街 金時山
芝刈り路は、誰にも会いませんでした。
二宮金次郎こしかけ石
お茶畑 所々に道標がある
大山が見える キーウイ畑
塚原駅近くで、岩原城跡を見つけた。住宅街の中にある。<以下、ネット>

岩原城は室町時代に大森信濃守頼春によって築かれたと伝わる。駿河武士であった大森氏は頼明の代に箱根を越えて東へ進出し応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱では足利持氏に味方をして乱を鎮圧した戦功により相模国足柄郡に所領を与えられ小田原城を拠点とした。この頃に岩原城も築かれたと思われるが正確な築城年代は不明である。
 頼春の子が名将として知られる氏頼である。氏頼は太田道灌とともに扇谷上杉氏の重臣として仕えており伊豆韮山城にあって相模への侵出を虎視眈々と狙う北条早雲をして「氏頼がいる間は小田原へは手を出せぬ」と言わしめた傑物であった。氏頼は文明10年(1478)に嫡子実頼に小田原城を譲り隠居し自らは岩原城で実頼の後見を務めた。
 大森氏の柱石であった氏頼が明応3年(1494)に岩原城において病死すると北条早雲はその機会を逃さなかった。氏頼没後に家督を継いでいた大森藤頼に弔問の使者を送ったり贈り物をするなどして機嫌を取り結んだ。藤頼がすっかり早雲に心を許した頃を見計らい明応4年(1495)には計略を駆使して小田原城を攻略した。この戦いで早雲は千頭の牛の角に松明を結びつけて小田原城下へ突入させる「火牛の計」を用いたというが真偽の程はわからない。小田原城が陥落したと同時に岩原城も落城したとされる。後北条氏によって岩原城が使用されたという記録は見られないことからこの戦いを最後に岩原城は廃城となったようだ

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