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金時山(1212m)、矢倉岳(870m)

平成23年12月4日(日)家族 

 7:45 仙石
 8:35 金時山 山頂
 9:33 足柄峠
10:28 矢倉岳山頂
11:21 矢倉岳本村
12:05 大雄山駅

 今回は、何度も登っている金時山から矢倉岳に縦走してみる。
 今日も二日酔いだが、早起きできたので、大船6:04発の東海道線静岡行きで小田原へ。小田原から仙石までバスで行く。箱根は雪景色だ。朝早いので誰も登っていない。
 
仙石から金時山を登る。2度登っている神社コースではなく、手前から登る。 
   
残雪と霜柱の道を登る。アッという間に頂上である。頂上からの絶景をどうぞ。
 
 
 
 
 
足柄峠への道は、急峻な階段が多い道を下りるとなんてことはない林道歩きがつづく。 
  
 来たりし金時山を振り返る。急峻だ。
 
 途中で改めて富士山。素晴らしい。
   
   
足柄峠に着く。ここも古い。縄文のころから通っていたそうな。新羅三郎義光簫の石。また、昔、足柄城があったとのこと。以下、ネットより。

 

昌泰二(899)年、坂東に群盗が横行し、貢納物もたびたび強奪されたため、太政官府が「足柄の関」を設けた。その効果は著しく群盗は一年足らずで鎮圧され、翌年には関も廃された。その後平安期は緊急時に足柄の旧関が度々利用されたらしい。しかし鎌倉期にはすでに関跡も定かではなく、承久三(1221)年に没した飛鳥井雅光の「足柄の関を読める歌」には「足柄の山の関守古は有もやしけん跡だにもなし」と詠われており、防塁等があった形跡はなかった。永保三(1083)年に奥州の豪族清原氏の内紛朝廷のため奥州に下向した陸奥守源義家が苦戦した際に、弟の新羅三郎(源)義光が援軍を派遣(後三年の役)した際に、義光は箱根の関に着陣している。

足柄城が築かれた時期は正確には不明だが、天文二十四(弘治元・1555)年、北条氏康が三田郷(厚木市)百姓に足柄城の普請の人足を出すよう命じた文書がある。しかしこの前年の天文二十三(1554)年三月、北条氏康・武田信玄・今川義元は「甲相駿三国同盟」を成立させており、この時期の新規築城は外交上憚られることであり、この文書は従来から存在した城の修復を命じたものと捉えられている。築城の時期としては天文六(1537)年二月、今川義元が武田信虎と縁戚を結んだことに怒った北条氏綱が箱根を越えて河東一帯に出陣し、今川氏と争った「河東一乱」の後と考えられている。

永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破綻すると、駿河深沢城をめぐって北条氏と武田氏が攻防を繰り広げ、足柄城は永禄十二(1569)年から元亀二(1571)年にかけて「石切衆十人」をはじめとした人足が集められ大規模な改修を受けた。深沢城は元亀二(1571)年に武田氏により攻略され、守将の北条左衛門大夫綱成は足柄城に後退して在番した。

天正十(1582)年頃には足柄城の出入りが厳しく制限され、全面的な通行禁止の状態にあったことが「足柄当番之事」に見える。天正十五(1587)年には北条氏光が城番に任ぜられ豊臣秀吉の東征に備え再度大規模な改修が行われた。豊臣氏と北条氏の開戦直前の天正十八(1590)年三月、佐野城(唐沢山城)主の北条氏忠が足軽百名ほか鉄砲・弓・鑓隊を率いて入城したが、四月一日、山中越えの街道を守備する山中城が陥落すると氏忠は小田原城に退却し、依田大膳亮が守備していたが、徳川家康の将、井伊兵部少輔直政の一隊によって攻撃され、十数名とも二十六名とも言われる雑兵を討たれ、開城・退却し廃城となった。

   
聖天堂。 
   
足柄関所の跡。また、1時間程度走って、矢倉岳頂上に着く。ここも富士山、金時山、明神が岳、丹沢の山々、相模平野が見渡せる。
   
   
   
 相模平野と太平洋 下山すると茶畑から平野が見える 
 
 足柄の宿と矢倉岳、金時山を望む ところどころにこうした石版、庚申塔が並ぶ
   
 白地蔵。室町時代からあるそうだ。  
 
大雄山駅のある関本は、矢倉沢往還の関本宿だったそうな。 
   
駅前でそばを食べて、平塚の古代の湯でお風呂に入り、辻堂にできた湘南テラスモールに寄ってい帰りました。 

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