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北斗市(旧上磯体育館〜上磯市街〜一本木〜千代田〜旧大野町市街〜観音山(144m)〜文月〜戸切地陣屋跡〜清川〜旧上磯体育館)

平成24年9月22日(土) 

1100〜15:00頃
 本日の晩、函館で昔の仲間たちと飲み会なので、昼間は近くの北斗市を走ることに。北斗市には昔、函館に住んでいて気がつかなかったが、歴史ある史跡がたくさんあるのだ。
 次のホームページが参考になった。
http://iruka.g.dgdg.jp/bunpoken/sisekimap/map2.htm

中には、室町時代のものも。そして、思い掛けず、観音山というピークもゲット。天気もよく、良いランニングでした。
   
   
   一軒目は種田家。関ヶ原の戦いの末裔だ。

種田家は北斗市の旧家です。出処については慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に破れた九州秋月家の庶流、種田権頭胤直が有川村へ佐井村(南部)経由で渡道したといわれています。宗家は代々「有川大神宮」の宮司を継ぎ、本家は種田金十郎(8代目)の代に名声を博し「渡島王」と呼ばれました。場所請負人の岡 田半兵衛から古平漁場の譲渡を受け、室蘭・小樽方面へも拡張し、戸切地陣屋の造営や箱館戦争等に松前藩の会計方として深くかかわりました。分家(イリシメ)は種田徳兵衛が明治13年(1880年)家督を受け、 郡総代、村総代人として永年公職し古平方面での漁場を基盤に前浜でも鰯粕の製造をし、4代目幸右衛門は警防団長や消防団長で町の安全を守り21年間も町会議員をつとめました。
 種田家は漁業ばかりでなく、農業・林業・産業を興し町の発展に貢献しました。
   
   次に有川神社。ここも古い。
有川大神宮は慶長2年(1597年)創建、寛文3年(1663年)修検万歳坊が再建し、享保12年(1727年)種田藤宮が重ねて修理したと云われています。当市で最も古く有川(旧上磯)の総鎮守です。
 この碑は文中の応永という年号や難解な漢文であることから、有川大神宮の由来記とみられてきました。建立年月日は明記されていないが、明治28年(1895年)の日清戦争の戦勝記念と21年毎に立て替える伊勢神宮の遺風に倣った新殿落成記念で石碑が建立したようで、戦前は大きな砲弾が二つ碑前にありました。
 文撰は書家として有名な、函館控訴院長の西岡宣軒。宣軒は号で、名は逾明(すぎあき)、佐賀藩士出身です。
   
 函館戦争の戦死者の墓だ。 函館山が近い。 
  
 横津岳、駒ケ岳が見える  
   
 一本木集落の意味の木。本当は先代の木で昭和29年の洞爺丸台風で倒れて、今のは子供だそうだ。  空手も、中国拳法も、古武道も教えるのだ、すごい。
   
   
   一本木稲荷神社にくる。神社の向こうに、北海道で初めての三角測量の碑がある。

一本木稲荷神社は、『蝦夷実地検考録』によれば、八郎大明神と稲荷神が合祀されている。八郎大明神の祭神・大巳貴命は、おおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命は、国土経営の任にあたり医療まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神・保食命と倉稲魂命については、どちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木村にふさわしい神々である。
 一本木の神社は稲荷神社だけでなく、八郎大明神というものもあったので、検考録には2つ並べて書かれ てある。2つということはもともと2つのおやしろが別々にあったのか、1つのおやしろに八郎大明神と稲荷社があったか。いずれにしても寛政中(1789〜1800年)勧請とあることからみて、はじめから社を2つわけて建てたとは思われず、1つの社に合祀したものと考えられる。
 また、平成6年8月に以前の鳥居が老朽化したうえ、神社前の道道大野上磯線の改良工事に鳥居の一部が かかったため、氏子らの寄付で建てられた。
   
  千代田稲荷神社は、寛政6年(1793年)に勧請されたもので祭神は、倉稲魂命である。明治9年(1876年) に村社となる。杉の木立が主となって鎮守の森を造っており、祭典は毎年8月25日に行われている。
 境内に藤田市五郎翁の碑がある。翁は慶応元年(1865年)、千代田西川原で生まれ、幼少時、米沢藩の漢学者・松本新平の門下生として学問を志した。温厚な人柄で多くの公職につき、住民の信望も厚く、開拓精神に富み、農業発展の基礎づくりに励んだとされている。
 20歳の時、札幌農業学校長・佐藤昌介博士の紹介で、東大農学部での西洋野菜栽培の勉強のために上京した。明治44年(1911年)、ケチャップの製法に取り組み、大正11年(1922年)には、南鷹次郎、星野勇三博士の学説を取り入れて温室をつくり、トマト、ニンジン、サンショウを栽培した。昭和6年(1931年)には、ピューレー(ケチャップの原料)の製造に成功し、年間25,000本(ビール瓶相当)を生産し、函館五島軒ホテルと契約して納入した。
 石碑の碑文は南鷹次郎(北農会長・北大学長)で、筆は、北海道長官・沢田牛磨によるものである。
   
   
   
  旧大野市街の光明寺に来る。ここも古いね。

函館の高龍寺を本寺とし、明和4年(1767年)光明庵として建立されたのを起源とする曹洞宗のお寺。箱館戦争戦死者の墓(備後福山藩、越前大野藩、松前藩)の他、旧幕府軍戦死者(永井蠖伸斎、網代清四郎)の墓がある。永井蠖伸斎は衝鉾隊幹部として各地を転戦したが、明治2年(1869年)4月29日矢不来の戦いで死亡。網代清四郎は仙台額兵隊の指図役であったが、永井蠖伸斎と同じ4月29日有川にておいて戦死した
   
 レンガの家、中村家だそうだ。  旧大野町役場
   

明治元年(1868)、箱館戦争の際、今の峠下から五稜郭へ向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊と、阻もうとする官軍藩兵とが、旧大野町市渡で遭遇戦となり、この意富比神社境内を中心に戦闘になりました。

この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたって燃え上がり、強い北風にあおられて十数軒が焼失したそうです。村民は銃声や火災に逃げ惑ったそうです。

 

 
久々に鈴木牧場でアイスクリームを食べる 
   
 大野農業高校 観音山に向かう。霊場になっている。 
   
   
 観音山の標高は144mで高くない。森の中にお堂と像がならんでいる。道路から大野平野と函館がよく見える。
   
 法亀寺は北斗市(旧大野町)日蓮宗実業寺の末寺です。
1849(嘉永2)大野村東下村に法亀庵として建てられ、その後法亀寺に改称し、1889(明治22)年現在地に移転しました。
境内にある一本のしだれ桜は推定樹齢300年で高さは12mくらい
 文月地蔵堂の創立年は不詳だが、大正3年(1914年)編纂の『大野村史』によると、明治8年(1875年)4月、有志の寄付にて21坪の木造茅葺きの堂宇を建築。同30年には7坪を増築し、留守僧も常置していた。本尊は地蔵尊、釈迦如来、阿弥陀如来で、上磯町清川の禅寺から如来像を譲り受け、禅宗と浄土宗の合同形式をとったという。今は留守僧もいないが、墓地だけは寺の土地として管理されている。北海道水田発祥の地である文月地区には、この地蔵にまつわる奇妙な雨乞いの話が伝えられている。日照りが続き、手の限りをつくしたが効き目がなく、ある日、村の名主の発案で、地蔵様を川へ担いでいって水浴びをさせることにした。翌朝、函館山の方に黒い雲が見えたかと思うと、みるみるうちに雲が広がり、大粒の雨が降り始めた。雨は一昼夜降り続き、翌日カラリと晴れた。 村の人々は涙を流さんばかりに喜び、さっそく地蔵様を川から揚げて元の所に納め、お礼を言った。その後、地蔵様は何度も川に入れられたという。
   
 古い小さな神社  ふっくりんこのふる里
   
   
 安政元年(1854年)神奈川条約締結後、幕府は外国船渡来により不測の変に備えて翌2年津軽・南部・仙台・秋田・松前の五藩に分担警備させ、蝦夷地防衛の強化を図った。松前藩は七重浜から木古内までを分担し、その陣屋として、この戸切地陣屋を構築した。基本は蘭学の築城書による四稜堡で、大砲六門を据え、宿舎二十二棟を建て、備頭竹田作郎忠憲以下一隊の兵を駐屯させたが、漸次士卒の家族を移して守備のかたわら附近の開拓に従事させ、屯田のかたちをとった。明治元年箱館戦争の際、駐屯の松前軍は陣屋を自焼して退いた。この陣屋は保存極めてよく、幕末における近辺の国際情勢を窺うによく、且つ西欧風の影響を知る資料として、築城史上価値ある史跡である。
(表御門にある説明板より)

この陣屋は1855年(安政2年)幕府に命じられて松前藩が築いたものです。構造は四稜郭で、完成から13年後の1868年(明治元年)箱館戦争の時、旧幕府軍に陣屋が使われないよう自ら建物に火を付け焼き払ってしまいました。この陣屋は、1965年3月18日、国の指定史跡となりました。
(裏御門にある説明板より)
   
 上磯にハリストス正教会がある ダムの説明版 
   本日の宴会場所。函館市本町のサザン食堂
   

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