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札幌市南区:白川神社、二星岱(228m)、二星岱三十三観音

令和3年(2021)12月4日(土)     
札幌市南区藤野〜白川・白川神社〜簾舞・二星岱〜藤野
9時頃スタート 15.0km 2時間3分

 吉方である南方の終わりの時期が近づいてきたので、南区の白川、藤野方面を走ることにする。今日の目的地は白川の白川神社と簾舞の二星岱である。この二つの目的地は、いつも車で走っていて気になっていて、夏にはヘビとの遭遇が怖く、初冬の雪がない時期の訪問を狙っていた。
 藤野の大型スーパーに車に停めて、国道230号線を札幌市中心街に戻り、白川への道を走る。白川神社は北方自然教育園学習館の奥の山の中腹に鎮座していた。神社からは藤野の市街と藤野三山、札幌岳などがよく見える。そして神社の横に石碑が二つあった。

【紀念碑(または白川開拓記念碑)】
 向かって右側の石碑は、小さな文字が沢山刻まれているが判読できない。南区のホームページでは白川開拓記念碑と呼ぶそうだ。記念碑の横に説明板があり、碑面の文字が書かれている。これも破れてしまっており判読できないが、「歴史のあしあと札幌の碑」さんから転載させていただく。
「記念碑文 
是の白川の里はしも広しとにはあらね、すめる三民の数こそ少けれ、このさとひとのかたみに信もて交り、むつひて、親み深きことは、他のさと人の鑑ともなり、この里人かとり作るものはし五穀を、始めて草の葉まてに、豊穣て、何処の品評会にも、類少きほまれとり、負はぬとはなしとかや、あはれこの美しき、さとをひらき初めし人はたそや、これそこの里人か、親とも、おやと尊み、親しむ、小村亀十郎ぬしにわありける、ぬしは紀伊国海草郡西和佐村に生れ、二十九歳ばかりの程、明治二十二年といふに、大和心の雄心ふりおこし、この北海道に移り来て、篠路の屯田兵となり、銃となり太刀佩くわさと、荒野の新墾あらすきかへす業とに、ひたふるに、心をゆたねて、年の十と世を大かたならぬ、労もてあまたのこかね貯へ、さて後明治三十二年十二月より、この里をは、開きはしめたるなりけりその後も、たてうめし雄こころ、いよいよ堅く、阿またの里人、あともひて開墾の業は、いふも更なり、学校建つることに医師聘く事に道路開鑿く業に、さては、杣木ひく業、炭焼く業まても、心を悩し、里人の為めとしいえは、身もたなしらにはせめくらひかねて、貯へたりし、こがねも、おほかたは、其事ともに、費したりとぞ、いふなるしかれこそ、このいみじき企ても、幾と世ならぬに喪なく、事なくなしをへて、今は里人も、ゆたかに、ぬしも、とみさかえて、よきさとの賑ふ里とは、なれるなりけれ、けにさと人の、心の直く正しく、忠こころもて、睦ひ、かはすことも、生業をいそしむ事も皆このぬしのおもむけに、よれることゝなもゆかしみ、おもはるゝこゝに里人等あひたはかりて、ぬしがこの心つくしの故よし碑にゑりつけて後毘に伝へむとて、そのふみ、おのれに、こはるまゝにかくなむ、さてうたひけらく美那もとのきよきを見ればしら川は 千代も濁らぬ名にこそありけれ 
明治四十一年四月三日 官幣大社札幌神社宮司 従六位 額賀大直
 この碑は、明治四十一年一月、部落民岡栄氏等発起人となり、翁が白川の里の開拓に尽瘁したる功績を永遠に記念すべき事を協議一決、一致協力して部落の中央に幾千金を投じて建立したるなり。」
 となっており、白川地区の開拓に尽力した小村亀十郎の功績を称えたものとなっている。この説明書きによると、小村は現在の和歌山市出身で、29歳だった明治22年に篠路村の屯田兵として北海道に渡り、明治32年に白川の開墾に従事し、住民のために持ち金を使い果たしてまで道路の開鑿を行ったことが記されている。

 紀念碑の横に「白川開基百年記念碑」が鎮座していた。

【白川開基百年記念碑】
 碑は新しいもので、正面に「開基百年記念碑」と刻まれており、背面に「平成十年七月二十八日建立」と刻まれており、碑の台座の背面には「白川開基百年記念碑建立協賛者名」として、24名4団体の氏名及び名称が刻まれた石板がはめ込まれている。  

 白川を後にして、簾舞の二星岱に走って向かう。二星岱には国道230号線を渡り、簾舞川の西側からアプローチする。二星岱の東側の道はおそらく本願寺道路だと推察する。二星岱への踏み跡があったので登って見ると、観音様が鎮座する登山道に突き当たった。登るとすぐに頂上に到達した。頂上からは樹間から簾舞や藤野の市街、八剣山などが見えた。頂上には祠があり、内部には一際大きな観音様が祀られている。祠の横には石碑があり、由来が書かれている。

【簾舞二星岱公園・三十三観音菩薩】
「沿革
当簾舞二星岱公園・三十三観世音菩薩は大正二年創設功労者並観音信仰者の発願により三十三番観音と地蔵尊を安置以後毎年六月二日、十月二日に例祭を厳修し爾来六十有余年の歳月を経地域発展に伴なう新国道の開通で現二星岱に一括安置されたが風雪崖け崩れ等で観音像破損著しきを見、黒岩卯三郎氏初め発起人五名が復元を発願、地域住民並信仰者の篤志を得て観音堂建立、観音十二像、奥之院聖観音一像を造像、昭和五十二年六月十二日完成遷座祭を盛大に厳修す
創設功労者 豊平湯殿山斉藤周嶺師、大松寺小坂了観師 (他6名)
 昭和五十二年六月十二日 簾舞二星岱公園・三十三観世音菩薩復元篤志功労者四百余名(芳名観音堂に記)」

頂上からまた下り、三十三観音の参道の入口である国道まで走り、入口の石碑などを確認し、また、参道を途中まで登り、本願寺道路と推察される道まで戻り、藤野の住宅街を走って車まで戻る。

 
   
 
 
   
   
 
   
 
 
   
   
 
 
 
   

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